九ふんへ
8月22日。モーニングコールは5:40ホテルで朝食を済ませ、大理石の山が延々と連なる太魯閣渓谷観光に向かった。過日の台風の影響で崩落場所があり、復旧工事中の場所があるらしい。そのため、ダイナマイトの掛かる時間との兼ね合いで出発が早まったのだ。つまり、工事開始時間前に工事現場を抜けないと、かなりの時間を待たされる事になるらしいのだ。迫力満点の断崖絶壁や幻想的な素掘りのトンネルが気分を盛り上げる。バス1台通るのがやっという狭い場所もあってスリルも味わった。(^^♪渓谷の両側も川の中の石も全て大理石である。ガイドさんが「1トンまでならタダで差し上げますので、どうぞお持ち帰りください」と言って、乗客を笑わせた。橋を渡ると細くて長いトンネルが待ち受けていた。此処を通り抜けないとバスの駐車場に行けないのだ。とにかく、何処も彼処も大理石だらけ。(^^♪帰りは別ルートを通って降りて来た。その後、大理石工場の見学に入った。この近くで「日光猿軍団」から引退した猿たちが公演をしている所があると言うのだが、時間がなくて立ち寄れなかった。と言うより、元々のコースに入っていないのだ。工員たちが大理石をカットして製品を作っているのだが、全てコンピュータが行うため、人間は機械のコントロールと大理石のセットだけだという。マスクをした小母ちゃんが出来上がった製品を丁寧に磨いていた。こんな物まで作っているのだ。日本で使われている大理石の80%以上は、この太魯閣渓谷から産出されたものである。と、ガイドさんが言っていた。続いて、この工場の近くにある花蓮駅から特急に乗って七堵駅に向かう。この列車の中で、先に紹介した台湾式弁当を食べたのだ。この電車は日本の「日立電鉄」が作ったものである。列車の至る所に日立の看板が張り出されていた。約2時間、七堵駅に着いた。別会社の貸切バスで九ふんに向かった。此処は炭鉱夫が暮らしていた場所で、今なお住み続けている人がいる。九ふんという地名の由来はいくつかある。一般的には台湾語で「開墾した土地の持分を9人で分けたもの」の意味である。が、清朝初期に9世帯しかなく物を買う時に、いつも「9つ分」と言っていた事からとも言われている。さて、どっちに行ってみようか。写真下方はNIJIのシューズである。(^^♪その昔、九ふんは台湾の一寒村に過ぎなかったが、19世紀末に金の採掘が開始された事に伴い徐々に町が発展し、日本統治時代、藤田組によりその最盛期を迎えた。九ふんの街並みは、日本統治時代の面影を色濃くとどめていて、路地や石段は当時に造られたものであり、料理店などの建物が多数残されている。しかし、第二次世界大戦後に金の採掘量が減り、1,971年に金鉱が閉山されてから町は急速に衰退し、一時人々から忘れ去られた存在となっていた。しかし、1,989年に二・二八事件を正面から取り上げ、台湾で空前のヒットとなった映画「悲情城市(A City of Sadness)」のロケ地となった事により、再び脚光を浴びるようになる。映画を通じて、時間が止まったようなノスタルジックな風景に魅せられた若者を中心に多くの人々が九ふんを訪れ、メディアにも取り上げられるなど、台湾では1,990年代に九ふんブームが起こった。このブームを受け、町おこしとして観光化に取り組んだ結果、現在では街路に「悲情城市」の名前を付けたレトロ調で洒落た喫茶店や茶藝館、みやげ物屋などが建ち並び、週末には台北を始め世界各国から訪れる多くの人々で賑わっている。また、宮崎駿のアニメ「千と千尋の神隠し」のモデルになったという噂もある。此処から眺める海の表情も別格である。レトロな雰囲気を満喫した所で、九ふんを後にして台北に向かった。故宮博物院を見学するためである。次の写真は、その三大至宝の「白菜」のイメージであるが、そんなに有名なのか?白菜だとかキリギリスだとか、熱心な説明を受けたが大した事ではなかったような気がする。おまけに、20分も並んで見るのは数秒。(^^♪そんな有名な物より、ずっと目を引く展示物があったが、後は、あなたの目で確認してください。(^^♪セキュリティーチェックが厳しかった。リュックを背負ったツアーメンバーが入口で取り上げられた。間違って展示物に触れて破損する危険があるからだという。さぁ、目の保養もしたし、お茶セミナーでも聞いて、買い物をしてからホテルに向かうとしますか。今夜は台北泊である。