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テーマ:海外生活(7774)
カテゴリ:こころもよう
バッボ(ダンナの父)は、“イタリア人”らしくない人。
陽気で人懐っこくておしゃべりな、いかにもイタリアのマンマ! という姑と対照的だから余計そう思うのかもしれない。 2001年に留学してすぐダンナと知り合ってダンナ家族に初めて会った時から 正直な話、妊娠する時くらいまで、バッボと2人っきりになると 何を話していいか分からない時もあった。 いつも何か距離を置かれているような。何事にもきっちりしていて自尊心も高いように思う。 それは、“フィオレンティーノ(フィレンツェ人)” の代表的形容詞で、 まさにバッボは生粋のフィオレンティーノだった。 私が出産する病院を決める時に、“うちの子は nato a Firenze (フィレンツェ生まれ)でないと!”と 強く主張したのももちろんバッボ(結局一番近い隣町の病院で出産したけど)。 クロスワードパズルと車が趣味で、バッボが初めて買った車・チンクエチェントで フランスなどあちこちを旅した事、小さい頃にはアルノ川で泳いでいた事、 1966年のアルノ川氾濫の時は夜中にヴェッキオ橋まで見に行った事 などの話を聞いていると、イタリアの、フィレンツェの古き良き時代の ドキュメンタリーでも見ているようだった。 定年してからも、近所に新聞を買いに行くだけでもネクタイを締めていたり、 赤のズボンをさらっと履いたり、素足に上質の皮のスリッポンを合わせたりと 常に粋でおしゃれだった。 毎週水曜日の午後は、元同僚たちとレプッブリカ広場で待ち合わせしてチェントロを闊歩した。 数字に強くて、ダンナの確定申告もいつもバッボに見てもらっていた。 2003年にダンナ家族皆で日本を旅行した時は、 マンマ・義妹と一緒に着物体験するはずだったのに 土壇場になってキャンセルしたいと恥ずかしがった可愛い一面もあった。 甘いものには目がなくて、ほっぺに生クリームをつけて子供のようにほうばる時もあった。 そんな意外な一面も見ながらも、まだまだ私とバッボの距離はまだま縮まってなかったと思う。 しかし、私の妊娠が発覚してから何かが変わった気がする。 いつも私の体を気遣ってくれ、そっと肩に手を回してくれていたり、きゅっとほっぺをつねってきたり、 私の仕事の話を興味持っていろいろ聞いてくれたのもバッボだった。 私の作る料理を美味しい美味しいと言ってたくさん食べてくれた。 出産後、分娩室から私とマニーノが出てきた時も、マニーノをちらっと見ただけで 私の所へやってきて “よくやった、よくやった!” と手を握ってくれたのもバッボだった。 マニーノにとってもとても良いノンノで、小さい頃からノンノに抱かれるところっと寝たり、 物心がつけばノンノをいつも指差して笑い、 ノンノには一目を置いていて彼の前ではゴンタは一切しなかった。 昨年3月の胆石手術前の検査で“昔患った気管支炎か何かの名残でしょう” と言われていた肺の“影”。別の箇所に胆石が見つかった時の検査でも見つかった肺の影、 今度の先生はこれが何かはっきり分かるまで胆石の手術はできないと、 いくつもの検査を繰り返してやっと癌だと分かったのは7月。 しかし、両肺にまたがり箇所的に手術は不可能・完治も不可能とすぐに診断され、 進行を止める為の薬物治療が始まったのが8月。 副作用で髪が抜けた以外はいたって元気で、今までと変わらない生活をしていたのに、 治療の1ターム終了後の検査では進行は進んでおり、治療内容を変えたのが10月。 そして11月末突然の吐血、精神的にパニック状態になる夜もあり、 12月頭にあったローマでのダンナの日本語能力テストは今回見送る事に。 その翌週、高熱が下がらず10日間の入院。 クリスマス前に退院したものの、体の衰弱も激しく、 自宅で酸素ボンベを伴いながら抗癌剤治療を続ける。 “こんな姿は見られたくない”と、私達家族:マンマ、ダンナ、義妹、私、 マニーノ以外の訪問は一切拒否。 年末にはトイレ以外はベッドから降りなくなり、1月のフェスタが終わる頃には寝たきりに。 昼間は覚醒作用のある痛み止めで落ち着いていたものの、 夜は激しい痛みでパニックになる事もあった。 12日、私達が実家へ行く朝にマンマから早朝電話があった。 私とマニーノは連れてこないで欲しいと。 ダンナは見られるのが恥ずかしいだけだから気にするなと言ったけれど、 私は“家族”から除外された疎外感に襲われ涙がこみあげてきた。 “今見られたくないと言われたら、もう一生会えないかもしれない” と ダンナにはその涙の訳を説明した。それももちろん嘘ではなかったけれど、 “除外された” というショックのほうが何倍も強かった。 ダンナが出発して5分もたたないうちに、 “今から迎えに行くから、理由は後で説明する” と電話があった。 急いで支度をして車に乗り込んだが、バッボがやっぱり来て欲しいと言った訳でなく 買い物を頼む為にダンナの携帯に電話してきたマンマが “戻って2人とも連れて来なさい” と言っただけだった。 だから、実家についても私は寝ている時にドアの隙間から様子を見ただけで、 バッボが少しでも目が覚めている時は私は姿を見せず、 マニーノはダンナに連れて行ってもらった。 ダンナからは気にするな、何も問題ないからと何回も言われたけれど、絶対に行かなかった。 夜9時すぎに家に帰る時はマンマからも “キスしてあげて” と言われたけれど、 涙を隠しながら首を横に振った。表向きはバッボの意向を尊重した事になるのだけど、 実際はただこの疎外感をぬぐえなかったから、 私の姿を見てバッボがどう思うかが怖くて行けなかったのだ。 翌朝、5時半頃電話がなった。 マンマから死の知らせだった。 ほんの8時間前、どうして私はキスをしてあげられなかったのか・・・ 強い後悔の念に襲われた。本当に、本当に最後のお別れだったのに。 実家に着いて一通りの事が終わった後、バッボの遺書を皆で読んだ。 バッボらしく、最後の最後まできっちりと、これからの事や自分の最期はこうして欲しい という希望がこと細かく書かれていた。自分の遺体を見られるのは、マンマ、ダンナ、義妹、 そして最後に “se se la sente (もし彼女の気が向くなら)” と私の名前が書かれてあった。 その時になってやっと、バッボは私を除外した訳でなく、私を気遣ってくれていた事に気がついた。 その時の、申し訳なくて恥ずかしい気持ち、後悔の気持ち、感謝の気持ち・・・ 一言では決して表せないその気持ちは、2週間近く経つ今でも私の中によみがえってくる。 時折、涙も出てしまう。それもこの日記で最後にしたいと思う。バッボはそれを望まないだろうから。 バッボ最後の衣装は、私達の結婚式用にフィレンツェいち老舗の洋品店で仕立てた服。 敬虔なカトリックだったバッボの手にはミサで使っていた十字架と、 家族で撮った2006年クリスマスの写真。 教会に入りきれないほどのたくさんのたくさんの人に見送られて、 今はバッボが生まれ生涯を過ごしたフィレンツェを見下ろす丘の上に眠っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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