テーマ:八重山的小説(65)
カテゴリ:nobel
あれは三十年も前のことです。 私は中学一年生でした。秋、弟が通ってる小学校の運動会が開催されました。無論、その年の春まで私が通っていた母校でもあります。私の家と母校は直線距離にして100mほどしか 離れてないのですが間にはトウキビ畑があり、私も弟も通学路は畑の周囲にある道を通ってコの字に行かねばなりませんでした。畑に入ると、いつもお百姓さんからどやしつけられるのです。 「こらぁ!くそがきども!畑に入るんじゃない!ぶっ殺すよ」みたいにして。 運動会当日は快晴でした。雲ひとつないすがすがしいまでの秋空です。まさに運動会日和。北海道の秋にしては珍しく少々汗ばむほどです。弟の応援には祖父と祖母もかけつけ、父上 と母上。それに私を合わせた五名で声をかぎりに精一杯応援したのです。ま、もっぱら私は遊んでおりました。春まで同級生だった連中の多くも弟や妹がいるので、小学校のグランドは友 達だらけだからです。ましてや、祖父と祖母が傍にいるとなれば懐具合も万全です。食べたいものを食べたいだけ食べ、飲みたい物を飲みたいだけ飲めるのです。 午前中だけでコーラファンタスプライトラムネ類を計五本にアイスクリームを三個、それにソフトクリームも一ついきました。そして昼食タイム。祖父祖母がいるので当然豪華版です。ちらし寿司から唐揚からソーセージからチーズ包揚げ、タマゴサラダ、海老フライと小中学生垂涎の的みたいな料理がござの上に食い切れないほどに並んでいます。すでに食べ盛りであった私は死ぬほど食べました。米の量にしておそらく三合。唐揚一キロ分、チーズ包み揚げとソーセージとエビフライを各五本。タマゴサラダの量は不明ですが、ともかく動けなくなるまで食べたのは確かです。 やがて午後の部が始まって辺りで旧クラスメートらが騒ぎ出すと動けなかった筈の私はやおら起き上がり、祖母から又も小遣いをせしめて友の群れへと合流し、そこで、また冷え切ったコーラやサイダーをがぶ飲みしたのです。それから三十年の歳月が経った今思えば、まさに狂った腹としか言いようがないのですが、それはさておき、運動会午後の部も半ばとなりグランド が最後の盛り上がりをみせ始めた最中、私の腹はごろごろと鳴り出したのです。 『やべぇな』と私は思いました。あきらかに下していたからです。 中学一年生の私に学校で大便をする勇気はまだありませんでした。よそじゃどうか知りませんが、私が通っていた小学校も中学校も、学校で大便などした日には、もう学校中の生徒から 後指をさされウンコマン呼ばわりされることとなるのです。卒業するまでのあいだ間違いなくその蔑称は付いて回ります。どうしてもそれだけは避けなければなりませんでした。 だが、下痢なのです。焦らないわけがありませんでした。一瞬脳裏に自宅へ戻るという選択肢が浮かぶのですが、私はそれを打ち消しました。だって今帰ったりしたらウンコをしに帰ると言ってる様なものだからです。だが下痢です。五分と経たぬうちに私の両足は震え始めました。 やばい。まじ、やばい。 そう思った私は、遊んでいた友の群れから足音も立てずにそうっと外れ、小学校の便所へと向いました。今なら皆グランド方面に注目してるから便所の警備は手薄になっている筈だから誰にも大便を悟られまいと読んだからです。だが、便所へ着いて愕然としました。男子便所と女子便所の間の壁にもたれかかって旧クラスメートの女子2名がお喋りに興じているではありませんか。それも強力な女子です。口から生まれたという比喩は彼女らの為にあるとでも言うべき口達者なやかましい女子2名なのです。 私は何食わぬふうを装って彼女らに挨拶しました。「よ、グランドで綱引き始まってるよ。行かないの」と。でも彼女らは愛想笑いを返すだけでした。そうです。彼女らにとって運動会など端っからどうだっていいのです。ただ喋るために彼女らは生きているそんな生き物なのです。 ガッデム!サノバビッチ!まさにそんな感じのセリフを私は日本語で吐きました。勿論、女子二名に面と向ってではなく、男子便所の壁に向って。もしこのまま大便に及べば所用時間や臭いなどから私が大便をしたのはすぐに彼女らの知るところとなり、口から生まれた彼女らは即刻グランドへとひた走り、ウンコマン事件として同級生らに噂して回るに決まっているのです。だから私は震える足で小便器の前に立ち尽くすだけで、小便ひとつ出来ぬまま三十秒で便所から出たのです。壁にもたれかかった女子二名に別れを告げ、校舎の外へと出た私はいよいよ追い込まれたのです。 脊髄に震えが走り、意識が遠のいていきます。やがて喋ることも困難になり、このまま校門前で力尽きるのではないかと絶望しかけたその時でした。道の向こうから宮田君が婦人用自転車 で走ってくるではありませんか。私には宮田君が神の使いにしか見えなかったのは言うまでもありません。 宮田君も又、旧クラスメートです。宮田君がこちらへ近づいてくる間、幸いにも排泄衝動の波が少し引いて喋る程度のことは可能となっていました。私は宮田君を逃しませんでした。 「あ!み、み、宮、宮田君、いいところへ来てくれたね。ちょっと自宅へ忘れ物を取りに行きたいのだが、きみのその自転車を少しの間ぼくに貸してはくれまいか。快諾してくれるならお礼は後ほど充分にさせてもらうよ」宮田君はとても信に厚い人なので 勿論快諾してくれました。 私は謝辞もそこそこ婦人用自転車へゆっくりとまたがり、のろのろと走り出しました。下腹部に余計な衝撃を与えぬよう慎重に走らねばならなかったのです。凸凹なんてもってのほかです。凸で突き上げられて気を失いそうになり、凹に落ちた次の瞬間私は間違いなく力尽き果てるであろうからです。家までは畑を迂回してコの字に100m、また100m、もう100mと行けばいいだけなので、普段なら三分と掛からずに走行できる距離でしたが、直腸付近に爆弾を抱えゆっくりとしかペダルを漕げない身にはとても長く感じられるのでした。気分はまるで苦行僧です。計ったわけではありませんが、おそらく時速にして7~8キロというフラつかないで済むぎりぎりの速度で私は走っていたことでしょう。まったくむごいことです。 そうして一本目の直線100mをなんとか走り切り最初の角を曲がろうとした時に過去最大の衝撃波が下腹部を襲ったのです。 「はうっ!」 そんな意味のない声が思わず口を突いて出ましたし、臀部が少しばかりサドルから浮きました。腹部のみに留まらずハンドルを握る手さえが震えました。いいえ。震えというよりは最早それは痙攣に近く、私はそれ以上婦人用自転車を漕ぐこともままならず、宮田君の自転車を路上へ投げ出し、一つ目の曲がり角にある見知らぬ他人様のお宅へとよろけながら侵入したのです。 私は震える手でドアを叩きました。「すい、すいません。べ、べ、便所をお借りしたいの…ですがあ」 呼び鈴も鳴らしました。何度も何度も鳴らしました。でも誰も出てきません。私はよろける足でそのお宅の庭へ回りこみベランダの窓へ顔を貼り付けてもう一度、蚊のなくような声で叫びました。「すい、すいません。べ、べ、便所をお借りしたいの…ですがあ」蚊の鳴くような叫び声とは矛盾しているように思われる方も読者の中にはいるかと存じますが、心情的には叫べども声量が気持ちに伴わないだけだとご理解ください。 でも室内に人の気配はなく、家人不在であることが苦境の私にも知れました。そうです。見知らぬ他人様から便所をお借りする希望は絶たれたのです。私は絶望しかけました。嗚呼、私はここで力尽き、他人様の家の軒先で脱糞の憂き目にあうのだろうか。なんて恥さらしなんだ。これまで13年間がんばって生きてきたのに。どうして僕だけが… しかし運はまだ私を見捨ててはいませんでした。突然、波が引いて行ったのです。私はまだよろけてはいましたが、宮田君の自転車を起こし、もう一度跨りました。硬直した肛門がサドルに当たってえもいわれぬ悪寒が走りましたが、あとたったの200mです。100m行って、最後の角を曲がってもう100m走れば希望の我が家なのです。 私は走り出しました。やはり慎重に漕ぎ出しましたが、意外なまでに下腹部の痙攣が収まってくるではありませんか!私は確信したのです。絶対に!大丈夫だ!と。 二本目の直線を抜け、最後の角を回った私の目についに自宅が映りこみました。あと90mです。やった。俺は勝った。あと70m。どうだ!この野郎、思い知ったか!ガハハハハハ、ウシャシャシャシャシャシャと心の中で笑った時でした。 前触れのないままに肛門括約筋が突如緩み、ドボドボと音を立てて軟らかすぎる大便が流れ落ちたのです。臀部から太腿にかけて生暖かい汁が伝います。私はもうそれ以上宮田君の自転車 を漕げませんでした。惰性だけで自転車は20mほどを走り、そこで止まりました。 我が家まであと30mのところです。 私はゆっくりと自転車を降り、辺りを見回しました。近所の人は皆、運動会へ行ってるのか誰の姿もありませんでした。畑へ入るといつも私たちをどやしつける恐いお百姓さんも今はいません。私はトウキビ畑の中へと分け入りました。収穫間際のトウキビは私の背より高く、私は誰にも見られずにズボンとパンツを下ろすことが出来ました。 残りなんてほとんどありませんでしたが、私はすべてを出し尽くしたのです。深くうなだれました私の頭の上を秋風が吹きすぎて遠くでキリギリスが鳴いておりました。 それから専門学校を出て私が実家を出て行くまでの間、母上は私と口論をするたびにこう罵声を投げつけました。「なにさ偉そうに。ウンコもらしたくせにさ!」 あれは三十年も前のことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.03.14 11:29:49
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