カテゴリ:旅ネタ
ご覧の通り店の前で鍋に火が入り、あたりに湯気が上がり、チャパティを焼く香ばしい匂いが此処を何気に通りかかった私を捉えて離さなかったのである。 ま、見たとおり壁も天井も柱も看板もすべてが煤け、そこはかとなくと言うよりは完璧に薄汚れたダーティな店ではあるが、ここらの界隈一体がダーティなのでこの店ばかりが殊更にダーティとは当節わたしの目には写らなかった。これぞインド。インド原風景。あるべきカレー屋のスタイルだ。ここにカレー屋なくして他にカレー屋があろうか。みたいな意味不明なことを思いつつ私は店へ入ったのである。 入ったと言うか上がった。これだけオープンスペースだと『入る』という表現は相応しくないだろう。通りの地面より二段ばかり高くなった店空間へ上がりこんだのである。上がった場所は写真でターバンを巻いた男が立っているところから。客は他に誰もおらず私だけだった。 写真が下手で奥行き感が見て取れぬかも知れないが、店の奥の壁、最深部までは二間(四メール弱)ほどあり、理由は不明であるが店の奥の床だけが数センチばかり高くなって段がついている。床なんぞできればフラットなほうが良いと思うのだが、こんな煤けたダーティな界隈にバリアフリーなんて最新式の考え方が存在する筈がないのは言うまでもなく、無論わたしとてバリアと聞けばマジンガーZやウルトラマンの技ぐらいしか想起連想できない始末であるが、 店の奥に座するのは見知らぬ土地にて発動される防衛本能的にも当然の流れであれば私は一縷の迷いもなくリノリウムっぽい床の上を滑るがごとく前進した。そしてそのままあと一歩踏み出せば奥の床面というところまで来て、段差を上がるために少しだけ高く足を持ち上げたその刹那。眼下の景色が一変した。 一段高くなった奥の床面は黒い絨毯でも敷かれているのか、もしくは客が落としたりしたこぼしたりしたカレーが踏みつけられ、脂にまみれて床面に浸透し黒く変色でもしたように手前の低い床とは明かに色彩が違っていたのであるが、それは実は黒き絨毯でも食べこぼしの変色でもなく、床一面にとまった蝿の大群だったのである。 私の足があがった瞬間、何万匹かの蝿の連中は踏みつけられるのを避けねばいかんと、生存の危機を回避するためにすることは一つしかないではないかと言わんばかりに一斉に飛び立ったのである。幾万のも蝿の大群が羽音もけたたましく一気に飛び上がる。つかの間、私は黒い霧の中へ迷い込んだ。此処はどこ?私は誰?なぜ黒い床は黒い霧になったの?え?蝿?蝿って床一面を覆うの?そんなに蝿っているもんなの?嘘?いるわけないよ。そんなに蝿がいたら大変だよ。地球が蝿だらけになっちゃうじゃないか。どうせ嘘をつくならもっと上手い嘘をつきなよ。え?嘘じゃないって。ダメダメ、俺はけっして騙されないよ。地球上にそんなに蝿がいるもんか。 そのように我を失いかけた私を現実に引き戻してくれたのはターバンの男が運んできてくれたチキンカレーの美味そうな香りだったのである。「あ、そう。蝿ね。へ~。蝿なんだ。インドのカレー屋には蝿が一杯いるんだぁ…。ま、いいか。カレー食おうっと」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[旅ネタ] カテゴリの最新記事
|
|