カテゴリ:本当のような嘘の話
彼女は僕の知らない名前で僕を呼んだ。
それが何故かちっとも不快じゃなくて、むしろ心地良かった。 学生の頃、大勢で行動するのがどうにも苦手で、 バイトが終わると夕食に誘うバイト先の同僚の誘いを断って、 安酒が飲めるバーに一人で通った。 客はだいたい学生で、でも、チェーン店のようにバカ騒ぎする奴らも居なくて、 (時折、そういう輩はいたが、二度と姿を現すことは無かった) エスニック調の狭くてごちゃごちゃしてて薄暗い店の雰囲気が、何とは無しに好きだった。 僕はカウンターの端でまかないみたいなメシを食い、 一人だけで働いてるバーテンのコヤマ君と、ジンライムを飲みながら雑談をして、 それで帰るだけ。 たまに、カウンターに座った常連とも言葉を交わしたが、 それ以上に深入りすることはなかったし、 かと言って僕が暗い男だったかと言うと、「社交的」と言っても差し支えないような、 そんなふうにうまくやれていた。僕自身も満足していた。 で、米を切らしたって言ってコヤマ君が僕に謝り、 メシを食い損ねた僕がクラッカーをつまみながらジンライムを飲んでいる時に、 彼女は僕の知らない名前で僕を呼んだ。 カウンター席の、隣の隣。 多分、肩より長くてちょっと痛んでる明るい色の髪を頭のてっぺんでまとめ、 たくさんのアクセサリーをつけた首や腕は薄暗い中でも、すごく白いのが分かった。 「俺のこと?」 「うん」 目をぱちぱちさせてこっちを見てる。 「なんで、その名前?」 「んー、いっつもジンライム飲んでるから」 そう言って、にっ、と笑い。コヤマ君に聞いたことの無いカクテルを頼む。 「ああ、ヨギーパインのことやね」コヤマ君がやれやれ、と言った表情でカクテルを作り出す。 背が小さいから、少し高いカウンターの椅子に座れば、彼女の足は地面につかなくて ぶらぶらさせながら、ヨギーパインを待つ間に鼻歌を歌っていた。 「なんで、さ。その名前なん?」 さっきと、同じ質問をする。 「だって、ねー。自分で名前付けたら忘れないしょ。あたしは忘れっぽいから」 そう言って笑って「でも、カクテルの名前って難しいから。みんな憶えれんやんね?」 同意を求める彼女に「まぁね」と適当に話を合わせた。 カウンターに並ぶタイかどこかの木製の人形、インドの金色の象の置物にも、 彼女は名前を付けていて、どこか幼い彼女の容姿と相まって、その行為が幼稚に見えたから 「お子様は、そろそろ帰る時間だよ」と言ったコヤマ君の言葉に、 僕は思わず吹き出してしまった。 ム、っとした顔でコヤマ君と僕を見て、「わたしの方が、歳上なんですから」 わざとらしくかしこまって言うもんだから、もっとおかしくなって僕は大笑いした。 今まで気付かなかっただけで、彼女は僕と同じくらいお店に来ていて、 僕と同じように一人でカウンターに腰掛け、足をぶらぶらさせて、 なんでもかんでも名前を付けていた。 コヤマ君はバンドでギターをやっていたから、って「ギタ男」って呼ばれてて、 あまりのセンスの無さに、コヤマ君はその名前で呼ばれることにひどく憤慨してたし、 僕はコヤマ君がその名で呼ばれる度に、腹を抱えて笑った。 彼女は僕の知らない名前で僕を呼んだ。 しばらくすると、その名前は当たり前のように呼ばれて、 最初に感じた心地よさが本物になりその名前で呼ばれることを待っている僕がいた。 「自分のお気に入りだけ。名前を付けるのは」 いつか、彼女が言ったそんな言葉で、僕は彼女のお気に入りなのかな、とふと思ったりもした。 僕と彼女はあの店でしか会わない。 一度だけ、彼女を店以外の場所で見て、男と二人で並んで歩いていたから、 僕は彼女を店から連れ出そうとはしない。 永遠に続くかと思っていた学生生活が、あと、1ヶ月で終わる頃。 就職して街を離れることが決まっていた僕は、彼女にそのことを言えないまま、 店で相変わらずジンライムを飲んでいた。 ギタ男、コヤマ君はバンドが忙しくなり、ツアーと称して各地を飛び回っていて 彼女も少しずつ、店に現れなくなっていた。 結局、僕は彼女に別れを言えないまま、街を離れることになって、 久し振りにカウンターに立ったコヤマ君に、彼女によろしくと伝えて、と頼み、 ジンライムを飲みながら、何か、大事なことを忘れてる気がして、それを思い出そうとした。 街を離れて幾月経って、休暇を取ってふらりと戻った時がある。 コヤマ君はバンドを辞め、「いい加減、大学を卒業せなあかんしな」と、 カウンターの向こうで笑っていた。 学生の頃、たくさん持っていたはずの何かを、僕は少しずつ忘れていっている。 そんな説明のしようの無い寂しさとか、この場に居るときは無くなる気がして。 「あの子は、今でもここに来んの?」コヤマ君にふ、と尋ねる。 「あの子?」 「うん、あの・・・」 そこまで言いかけて、僕が街を離れる前、忘れているような気がしていた 「大事なこと」の正体が分かった。 僕は、彼女の名前を知らない。 「ああ、はいはい。最近、ぜんぜん来ぉへんな」 そう言ってるコヤマ君の言葉をぼんやりと聞きながら、僕は彼女の言葉を思い出していた。 「自分で名前付けたら忘れないしょ。」 僕は、彼女に名前を付けようとして、でも、すぐにやめた。 名前を付けなくても、彼女を忘れる気が、まったくしなかった。 ジンライムじゃなくて、彼女のつけた名前でヨギーパインを頼んだ。 ひどく甘いそのカクテルは、僕に全然合わなかったけど。 彼女が僕に付けた名前を、僕をその名で呼ぶ彼女の声を思い出していた。 『ジンジン』 今思うと、『ギタ男』といい勝負な気がしないでもない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.09.05 16:25:22
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