カテゴリ:高井くん
これは私にとっても不思議なことだったのだけど、
「何も無い」って思っても家に帰ろうとは思わなかった。 この街で、何かを、手に入れなくてはいけない。 そう思い込んでいて、でも、それが何なのか見当もつかないまま、 私は東京で藻掻いて、毎日が過ぎていくだけだった。 名前も知らない男と寝ることもあった。 何も無いってことに恐怖とか寂しさを感じるよりも、 何かで埋めなくてはいけない、といった焦燥に駆られるように、 そのときの私はなっていた。 何も無い自分がひどく惨めに思えて、何かで満たそうとした。 私は名前も知らない男と何も無い身体で絡み合う。 私は名前も知らない男の唇をやわらかく噛む。 私は名前も知らない男のを口にゆっくりと含む。 私の中に、名前も知らない男が入ってきて、それを自分の中へと受け入れていく。 私には男の名前も素性も顔も、そして感情や愛も要らない。 「何も無い」ことから解放してくれるような気になる、その一時だけを必要とした。 それでも私の心には、依然、何も無いままなのに。 生活は一定のリズムで進んでいく。 波風が立たないその生活は、「安心」を得る一方、私を更に不安にさせた。 思ったよりも仕事は順調で、相変わらず店長は生理的に受け付けないけれども、 仕事自体は人と接することが好きな私に向いていたし、 必要以上に踏み込まなかったけれども、バイト仲間も、気の良いひとが多かった。 きっと、ほとんどの人が、その生活を「何も無い」とは思わないのだろうけど。 一度「何か」を失ってしまったような私には、その「何か」や、 それに代る物を手に入れなければ満足が出来ない。 何かを求める焦燥は激しくなるばかりで、 しばらくして仕事中にも、ぼんやりとすることも増えてきた。 「――― ちゃん?」 はっ、と気付いたときには、店長の顔が真向かいにあった。 「なんでしょうか?」 取り繕うつもりでした笑顔がうまく作れないのが自分でも分かる。 「最近さぁ、ぼーっとしてること多いよ?何?要求不満?」 店長のニヤニヤした顔がすごく近くにあって、身体がこわばる。 次の瞬間、「すいません」そう言い終わらないうちに通用口に向かって走る。 もう、嫌だ。 普通の、普通の生活も出来なくなってる。 きっと私が求めてる物なんて幻とか、そういうもので、 私が勝手に自分の中で作り出した物なんだ。 でも、やっぱり、私には「何も無い」。 それは変らない気がする。 進むことはもちろんだけれど、振り返ることも出来ない。 振り返っても、ケイの顔もうまく思い出せない。私の気持ちも思い出せない。 誰かにすがりつきたい気分だった。 でも、寝た男たちは、誰とも2度会うことは無かったし、 バイト仲間にも、ひとつ壁を作ってしまっている。 ケイは・・・もう、ケイじゃない。きっと。 通用口に座り込んで、私は動けなかった。 人の気配がして、はっ、と顔を上げる。 次のシフトの男の子が、そこに立っていた。 「あ、ごめん・・・」 そう言った瞬間、目から涙がこぼれ落ちる。 たぶん、東京に来て初めての、涙。 「ごめんなさい・・・ごめん・・・」 それだけを繰り返し、恥ずかしい気持ちもあってそれきり顔を上げることが出来なくなった。 男の子はすっ、と私の横を何も言わず通り過ぎる。 けれど、私にとってはそれの方がありがたがった。 「これ」 背後から声がしてびくっ、と振り向く。 男の子が空いた鞄から取り出した物を私に差し出していて。 私がそれに手を伸ばして受け取ると、そのまま店内へと消えていった。 呆然とそれを見送って居た私は、我に返って涙を拭き、立ち上がる。 職場に、戻らなくちゃ。 きっと、みんなが何があったのかと思ってると思う。 通用口のドアを開けようとして、渡された物が初めて何なのかに気付く。 なんで渡されたときに気付かなかったのかは分からないけど。 でも、そんなことに構ってる場合じゃない。 私は少し赤くなっているであろう目を気にしながらも持ち場へと急いだ。 制服のポケットの中には魚肉ソーセージ。 思えば、これが始まりだったのかも知れない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.10.03 17:17:06
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