何も無い街 -後編-
たぶん、何も変っていない。毎日の生活のリズムも、目に映るものも。変ったとすれば私の心。そんな安っぽい小説みたいな一節が、ちょうど私に当てはまる気がした。バイト先で泣いてしまったあの日。何もかもが嫌になって、全部終わってしまったかのように思えたあの日。あの男の子に渡されたものを帰るなり取り出した。部屋に寝そべって、それを眺めてみる。手にとって裏返してみたり、電気にかざしてみたりして。「何の意味があるんだろ」ちょっと考えてみたけれど、ぜんぜん見当もつかなくて、しばらくしたら自分の姿がとても滑稽なことに気付いて笑った。でも、たぶん。彼は私を元気づけようとしてくれたのかな。そう考えると、嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになってきて、いたたまれなくなってきたから、もう一度私はそれを見た。蛍光灯の明かりに照らされて、薄くオレンジ色に光る。「どんな意味なんだろうな」今度、彼とバイト先で会ったら。お礼を言わなくちゃいけないかな。それとこれの意味も。そんなことを考えていたらいつの間にか眠ってしまった。薬を飲まずに眠れたのは、数ヶ月振りだった。けれど。彼にお礼を言うことも、その意味を尋ねることも叶わなかった。次の週に見たシフト表には彼の名前は無くて、他の子が彼がクビになった理由をいろいろ推測する声が聞こえた。私は鞄の中にそれを入れて持ち歩くようになっていた。時折、思い出したかのようにそれを眺め、あの時のことを思い出す。でも、それは別に彼に対して恋心を抱いていたとか、会いたいと思ったりする訳じゃなくて。純粋にその意味を追っていた。それに、興味もあった。ひょっとしたら凄く大きな意味があるのかも知れない。スタバでキャラメルマキアートを飲んでいるときも、帰りの有楽町線の電車内でも、付き合いで行ったバイト先の飲み会の居酒屋でも、ふ、と気になっては鞄の中を覗き込んで考えてみる。隣に座っていたマヤがそれに気付いて話しかけてくる。心を許せる友達、って程でもなかったけれど、シフトの時間が同じで、同じ時期に入ってきたマヤと、私は話す機会が多かった。「なに見てんのー?」彼氏からのメールを見ているのとでも思ったんだろう。下世話な話をするときのような、ニヤニヤとした面持ちでマヤが言う。一瞬焦って隠そうとしたけれど、次の瞬間、それを見たマヤが、私の分からなかった答えを知っているかも知れない。知らなくても、何か思いつくかも知れない。そう思ってこっそりと鞄から取り出して見せた。ぽかん、とした顔でマヤがそれを見つめる。「なに、それ?」「さぁ、分かんない」「分かんない、って」呆気に取られたマヤに、あの日の出来事を話す。私が泣いてた理由は、彼氏にフラれたことにしておいた。「で、どう思う?」私の問いに、マヤは大きな目を斜め上に向けて、あごの下に手を置いた大げさな姿で考えているポーズを取る。「うーん、と。アレかな。泣いてる子にアメをあげるような、そんな感じ?」「コドモじゃないんだから」「だよねぇ、それに、これもらってもフツー嬉しくないし」「うん」「じゃ、きっとアレだよ」マヤは、分かった!というリアクションを、また大げさにする。「意味なんか無いんだよ!」私はその答えに声を立てて笑った。そっか、そうかもね。意味なんて無かったのかも知れない。マヤに話して良かったかも知れない。その答えは、確かに私の中には無かったものだった。意味は無いという答え。少し飲み過ぎた気もしたけれど、ひとりで帰ることにして、歩きながら思った。私は、少し考えすぎてたかも知れない。このことだけじゃなくて、東京に来てからの全て。「何か」を手にしなきゃいけないと思ってたのは、きっと手にしなきゃココに来た意味が無くなるから。そして、「何も無い」って思ってたのは、周りに溢れているもの一つ一つに意味や価値を求めすぎていたから。全てに意味や価値があるって思い込んでいた。実際には無いのにね。たぶん、何も変っていない。毎日の生活のリズムも、目に映るものも。でも、マヤの一言を聞いたときから。「意味がない」って答えもあるって、私の心は軽くなった。来週、私は生まれた街へ帰る。それは東京に何も無いからじゃない。私にとって、何かを手に入れるためには東京じゃなくてもいい。そう思ったから。また、いつか。ココにしかないものが欲しくなったら、戻ってくるんだと思う。そのときに彼に会うことが出来たら。私はお礼を言って、お返しをしなきゃ。全てはあれから始まった。だから。夏が終わった空は、驚くほどの青さ。私は「何も無かった街」へと出掛けた。鞄の中には、魚肉ソーセージ。私を変えてくれたもの。