10 包丁
時計の針が8時を指すのを待ってメールを送信した。10時からは研究班のミーティングだった。体調不良により欠席します。班の先輩にメールを送る。この時期にミーティングを欠席することの重大さを分かっているのかと、博士課程後期の竹原さんは目を三角にするだろう。その顔は、すぐに消えて、腕の中のサユリの顔を覗き込む。マスカラが溶けて頬に薄く黒い筋を残していた。眠ってしまったのは何時だろう。確か、外はまだ暗かった。この季節だから日の出は遅い。6時頃だったのかも知れないし、ひょっとしたらそれより後だったのかも知れない。息をゆっくりと吐いて、腕の中のサユリを起こさないようにソファにもたれかかって首を鳴らした。原付を隙間がほとんど空いていないアパートの駐輪所に、半ば強引に押し込んでサユリの部屋のドアまで走った。原付を走らせているときには殆ど感じなかったけれど、部屋の鍵を取り出そうとしたときに、手がうまく動かないことに気付いた。寒さでかじかんでしまった手では、鍵を開けることにひどく手間取ってしまった。苛立ちが強くなる。部屋に入ると、コタツの横で左手を押さえてうつむいているサユリと、コタツの上の包丁が目に入った。部屋には暖房が入って、痛いくらいの冷たさの中を走ってきた身体を包んでくれるような温度を感じたのに、背中には冷たいものを感じたままだった。「おい」サユリは動かなかった。見えている範囲では大きな出血が無いように見えて、少し落ち着きを取り戻した。横にしゃがみ、右手で押さえている辺りを見た。それからゆっくりと右手を外そうとした。「見ない…で」思ったよりも右手には力がこめられていたけれど、解くのにそこまでの力は必要なかった。傷は、思ったよりも浅かった。浅かったけれど、思ったよりもたくさんの赤い筋が並んでいた。水平にいくつか並び、それを横切るように斜めにも幾筋か走っている。黙って立ち上がり、クローゼットから小さな救急箱を取り出す。それをコタツの上に置いたとき、包丁に少し当たった。その包丁を握り、持ち上げたときに、ふだん料理をするときには感じない嫌悪感、そう、嫌悪感と呼ぶのが一番近い嫌な感情がざわりと握った手から背中を辿り、胸のあたりに落ちた。これが、サユリを傷つけた。いや、正確には傷つけたのはサユリ自身なのだけれども、そのときの僕には包丁が人を傷つけるおぞましいものとしてしか見えなかった。台所に向かい、包丁を半ば投げ捨てるようにシンクに置いた。ガキン、と鈍い音が響いた。包丁が視界から消えた後は、驚くほど冷静になった。消毒液を傷口に塗り、ガーゼを当てて包帯を巻いた。消毒液を塗った時に沁みたのか、サユリはそのときだけ身体をビクリと強張らせ、その後は全く動かず俯いたままだった。包帯を巻き終わっても、僕は左手を離さなかった。指先を軽く握る。サユリは動かない。もう少し強く握る。右手でサユリの左手を握り、残った左手でサユリの頭を撫でた。「苦しかった」サユリが初めて声を出す。頷く。サユリは僕を見ていない。けれど、何度も頷く。苦しかった。そうだろう、こんなにも幾筋にも腕を切るくらい。「そうやな」手首を切るリストカッターは、死ぬことが目的じゃない。それくらいは知っている。むしろ、死ぬほど苦しいから、心が苦しいから身体に傷をつけることでその苦しみから逃れようとする。生きるために、手首を切る。生きるために。「だいじょうぶ、な」頭を撫でる。自意識過剰かも知れないけれど、自分が居ることで、サユリは苦しさから開放されるんだと思っていた。自分が居れば、サユリは手首を切ることが無い。「俺がおるから。側におるから。ごめんな」サユリが顔を上げる。その顔は安堵に満ちた顔である筈だった。なのに。「切っても、切っても血が出ないの。私が、臆病だから。刃物が、恐いから」恨めしい目をして言ったその台詞は、耳を通し脳に届くのではなくて、胸の辺りに直接斬りつけるように響いた。うまく、口が動かなかった。本当に、サユリは苦しいから、それから逃れるために手首を切ったのか?「苦しかった」は、切る前の話じゃなくて、うまく切れなかったから…そこまで浮かんだ自分の考えを振り切った。サユリが、死にたいと思っているなんて、思いたくなかった。違う。手首を切って、動転しているだけで、だから何を喋っているのか分かっていないだけだ。そう繰り返して、サユリの後ろに回り、背中から抱き締めた。始めは強張ったままだったサユリの身体がゆっくりと僕にもたれかかった。そのまま、何も言わずにずっとそのままでいた。腕にサユリの体温が伝わる。生きている。生きていたい筈だ。だから、手首を切ったんだ。サユリの両手を僕の両手で包むように握った。僕の手首に包帯が触れた。大丈夫、だから。そう言おうとしてサユリの顔を覗き込む。その顔は、ぼんやりと宙を眺めていて、微かに動いた口が何かを言おうとしていることが見えた。サユリの目は、それから瞼が閉じてしまうまで、僕をとらえることは無かった。