遅塚忠躬『史学概論』
~東京大学出版会、2010年~
著者の遅塚先生(1932-2010)は東京都立大学、お茶の水女子大学名誉教授。近世~近代フランス史がご専門で、ロベスピエールに関する研究などのほか、本書のように、歴史学の方法論に関する論考も著しました。
歴史学の性質を丹念に検討する本書の構成は次のとおりです。
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はしがき
序論 史学概論の目的
第1章 歴史学の目的
第2章 歴史学の対象とその認識
第3章 歴史学の境界
第4章 歴史認識の基本的性格
むすび
主要参考文献目録
事項索引
人名索引
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まず、本書の要点を観点に挙げたのち、いくつかの疑問点をメモしておきます。
(1)本書の要点
まず、歴史学の2大ルールとして、事実立脚性と論理整合性を挙げ、この2つにより歴史学には反証可能性が保証されます(これが文学作品と異なる歴史学の性質の1つです)。
また、歴史学は「真実」には立ち入らず、これも文学作品との違いとなります(著者は、「事実」と「真実」を区別します)。
歴史学の作業工程として、著者は次のような流れを描きます。
(1) 問題設定(←主観)
(2) 史料の選択
(3) 事実認識(≒考証)
3種の事実:構造史上の事実・事件史上の事実・文化史上の事実
(正確性のゆらぎは文化史に至るにつれて次第に大きくなる=「柔らかな実在論」)
(4) 諸事実間の関連の想定(=事実の解釈)
(4)’「趨勢」の認識(→(5)歴史認識の説得力(客観性)を増大させる要素)
(5) 仮説(命題)の提示・歴史像の構築・修正(=「歴史認識」→「柔らかな客観性」)
※事実については、実在論と言語論的転回で提示された「事実は存在しない」という極端な見解を退け、上述の3種類の事実を区分し、解釈により構築される事実もあるが、より客観的な事実(物価等)も存在するため、「柔らかな実在論」という立場。
※歴史認識については、「真実」はありえないという立場ですが、事実・趨勢に基づくことによって、より客観性の高い命題は提示可能という、「柔らかな客観性」という立場。
こうした手続きによる歴史学の目的は、未来を予想したり、人々をどこかに導いたりすることではなく、読者を思索に誘うことと、とします。よって、イデオロギーに満ちた極端な主張(都合の良い事実のみを挙げるような「歴史」観)について、フランスでの法規制の事例も挙げつつ、著者は規制には反対の立場を取ります。というのも、丹念な事実認識と趨勢認識を根拠として論理整合性の高い議論を展開すれば、そうした偏った歴史観には十分反証可能だから、というのですね。
(2)疑問点
ここでは、事実に関する点のみ、疑問に感じた点をメモしておきます。
・まず、史料解釈の中で、「史料の記述が虚偽または無根拠である場合には、そのことは史料批判によってほぼ確実に看破されうるのであり、そういうウソの史料は史料解釈の対象から排除される」(123頁)という記述について。前半部は納得ですが、後半部については、なぜウソの史料が作成されたのか自体が分析対象となりうることから、言い過ぎのように思われました。
・最も疑問だったのは、上述の3種類の事実の区分です。文化史上の事実として、著者は、様々な史料の検討を通じて、ある暴動に至った群衆の思いについて、「みずからの行動の正当性を確信していた、というのが事実に近いであろう」と述べ、こうして得られた見解を文化史上の事実とします(たとえば125頁)。しかし、一方で歴史家は「真実」は扱えないとし、たとえばある人物の心の動きのありのまま理解しえないとします。ここで、なぜ群衆たちの心性は「文化史上の事実」たりえるのかが、私にはよく理解できませんでした。種々の史料分析からたどり着いたそれは「事実」というよりも「歴史認識」に近いのではないか、というのが今回読んで感じた印象です(うまく言えないですね)。
2011年に一度通読していましたが、当時は記事が書けていませんでしたので、このたび再読しました。
本文460頁以上の重厚な著作ですが、歴史学の営みを徹底的に理論化して提示しようとする試みであり、あらためて勉強になりました。
余談ですが、最近の歴史学方法論に関する著作である、池上俊一『歴史学の作法』(東京大学出版会、2022年)は、本書に対して、批判的とは言わないまでも、やや距離を置いたスタンスをとっていらっしゃるように思われます。
(2023.06.03読了)
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