カテゴリ:子育て支援
今日のニュースから
子育ての中の虐待について言及されるようになって久しいですが、 こういうニュースが流れると 「ああ、またとんでもない親が」「子どもがかわいそう」 という感想を抱く人が多いのではないかと思います。 確かに、本当に避けたい現実であり、晒されている家族に何らかの手立てはないのかと思ってしまう。 『他人事ではない』 と思える人はまだ良いのかもしれない。 その自覚すらなく、ともすれば「子どものために」と必死になっている親の言動が該当するなどという場合もあり、まだまだ、その認知も低い気がします。 虐待に晒されている家庭は、子どものみならず、親も、その家族も困っているのではないか、と思うのです。 たとえば自ら、子どもに手をあげてしまうことに自覚があり、このままではいけない、と自らサポートを申し出ることができる親御さんもいます。 申し出ることができれば…児童相談所、保育園などサポートを得ることができます。 問題は、わかっていてもそれを外に出せない人。自覚のない人。 ではないかと思うのです。 自分でわかっていても、身近な誰かに相談しづらいでしょう。 え、一体何事?って思われたくない。ダメな母親だと思われたくない。 そういう一所懸命な人ほど、思い通りにならない子育てに(むしろ思い通りにならないのが当たり前だったりするのですが)追い詰められて…という人もいるのではないかと思うのです。 知り合いに言えない、でもなんとかしたい。の一心で電話相談などしてみる。 でも、たいてい、相談員さんが仰るアドバイスは 「とにかく、どんな理由があっても手をあげるのはよくないことですよね。わかりますよね。」 「イライラしたら距離を置いてみてください。トイレに入って数を数えてください。」 というようなことが多い。 …これは、相談した人の一助になっているのだろうか? 言い方は悪いけど、一時しのぎ…でしかないのでは…? 瞬間的に、ふりあげた手を下ろすことはできるかもしれない。 でも…そんな簡単なことなんでしょうか。 虐待に直面している親子は、困っている親子です。(あえて親子と書かせていただきます) それを「とんでもない親」「かわいそうな子」でひとくくりにせず、 どうしてそうなってしまうのか。 どういうサポートが必要なのか。 親に、周りの人に何ができるのか。 というような、仕組みがあればと切に願わずにいられません。 今は、どなり声やさまざまな子どもの異変などからギリギリのところで「通報」されたところから、各機関が動く、ということが虐待への対応ということなのかもしれないのですが、 そうなる前に、何か手だてはないのだろうか。 *** 私は、きちんとしたお手本のような子育てを論じたり、指導したりすることが 親を追い詰める可能性があるのではないかと思ったことがあります。 だから、 「もっと、肩の力抜いてだいじょうぶ」「このくらい手を抜いても平気」 と言ってあげられる存在が必要だと強く感じることがあるのです。 子どもの日々の生活、もちろんきちんとして、整って満たされている方がいいのかもしれません。 それができるのならば。簡単にそういう環境にあるのならば。 でも何らかの理由で、それが叶わない場合があると思う。 特別なことではなく、そこここに、普通にあると思うのです。 みんな、人の前では良い格好したい。 ちゃんとした人、親と見られたい。 そういう人は、困っている自分をさらけ出せない。 まして、誰かを傷つけているなんていうことを言いだせるはずもないのです。 …そういう人が、どうすれば「助けて」が言えるようになるだろうか。 本人が言えなくても、ちょっとした会話の中から察知して、 親自身が心を開いて一言、相談できる場所、人。 そういうところが、やっぱり必要だと思うのです。 「育児相談」「虐待相談」という看板と電話回線だけでは難しいと思います。 児童相談所や警察が関わるほどではない案件であったとしても、 その前段階で、困っている、しんどい、と思う親が 「この人だったら聞いてもらえる」「ここだったら安心して託せる」と思ってもらえる人を、場所を どれだけ支援体制の中に配備できるのか。 もうすこし、そういうことに力を入れてもいいのではないかともう、何年も考えている気がします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.08.04 23:25:38
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