昨日は、子どもの水泳の話を投稿しました。
小学生のプールを始め、授業のことを語るときに頭をよぎることの一つに
「子どもの習い事」
というのがあるかと思います。
実際、今回の水泳の授業の話からしても、
うちの子のような戸惑いを持つ子ばかりかと思いきや、
「昨年は浅いプールで泳ぎにくかったから、深くなって嬉しい」
というようなお子さんもいると聞いて、それぞれで見方が違うものだと思ったものです。
「スイミングスクールに通っていて、水泳が得意だから苦にならない」
「泳げるから水深、身長などに関わらず、水泳が苦にならない」
このあたりもなるほど、といった感じではあります。
※こちらの件に関しては、習い事していたり得意な子にとっては深さのあるプールの方が嬉しいわけなので、身長や水泳スキルの加減で水が怖い、不安だという子については自己責任、みたいな論についてはまた、別の機会に。
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子どもの習い事というのは今や、当たり前になった感があります。
お子さんがいらっしゃる皆さんは、どんな習い事をしていますか。
またご自身が子どもの頃どんな習い事をしていて、どんな思い出がありますか。
さまざまな習い事。
それを始め、月謝を払いながら通い続ける背景の一つに
「学校の授業で困らないため」
という理由が、わりと主だったところにあるのではないかと推測したりします。
授業が嫌いになったら困る。
学校が嫌いになったら困る。
何かができないことでいじめられたら?
そんな理由もあるのでしょうか。
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親が、先先を考えて、早め早めに「習い事」を通して子どもに教える機会を与えることで
学校に行く頃には、授業で出てくるいろいろについて
「あ、これは知ってることだし簡単だ」
と子どもは思うのかもしれません。
理解できない、分からない、つまらない
というふうにならないとしたら、それが理由で授業が嫌になったりしないという意味では
先取り学習が功を奏している、と言えるのかもしれません。
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子どもが小学校低学年以下で始める習い事については、実質
始める動機は「大人」にあるのかなと思うことがあります。
(よほど、幼稚園児のころなどに習いたい意思が強く、子どもの意思で決めたというような場合もあるとは思うのですが)
大人が動機となる
その心は?
先ほどの「学校の授業で困らないため」というのがあるのではないかと思うのですが
その「困る」は「誰が」困るのか?
授業で困るのだから子どもが困る?
小学校低学年でのことは、子ども自身でコントロールすることは難しい。
だから、前もって伏線を引く。
それは、
「学校の授業で困る」わが子を見て「困る」親になりたくない
という心理はないのかな?などと思った次第です。
我が家では、大人が伏線を引いた習い事というのをやったことがほぼないので
よくわからないのですが、
きっと、未就学~低学年 から始める習い事というのは
何かしら、大人が希望をし、子どもには
「○○で困らないために」
みたいな説明をしているということはないでしょうか。
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「問題のすり替え」
というと人聞きが悪いような感じもしますが、
「困る」
といったときに、誰が困るのか?
子どもが困らないために?
でも、その延長線上に「親が」っていうのはないのだろうか?
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大人が伏線を引き、前もって先取り学習を子どもにさせることで、劇的に学校で「困る」ことは減るのかもしれない。
ところで、はたしてそれで、その子の生活、学校生活は平穏で過ぎて行くものなのだろうか。
勉強でもなんでも、人それぞれに得手不得手があるだろうし、
どうしてもその時は好きになれなくて、前向きに取り組めないことだってあるかもしれない。
それらのことについて、大部分のところを親がレールをしいておくべきかどうか?
も分かりかねますが、
「○歳から始めておかないと手遅れ」
みたいな発想で、子どもが身につけることを決めつけるような考え方は
子どもの生き方や、子どもを取り巻くさまざまなことの幅を狭めてしまうような気がしてならないのです。
何歳からでも、その子がチャレンジしたいと思えばスタートできる、受け容れられる。
何歳で、これができるから立派、ではなく
その子として、したいことをクリアしていこうとすることについて大人がサポートする。
そんなあり方に、個人的には憧れをもったりします。