テアイテトス(2)。
4章では、先にソクラテスから「お前さんテオドロスから幾何学やら天文やら学んだんだろう」と言われたところを捉えて、テアイテトスは「知識とはそういう学問だけではない」というつもりであろう、「職人の持っている靴作りの心得などといった技術も知識と言えると思います」と応じる。ソクラテスは産婆術とかいって人から話を引き出すテクニックの創始者のように言われているが、実は案外「誘導者」でもある。私なんかだったらこの後もう少し泳がせてみて、テアイテトスがなんというか聞いてみようと思うところだけれども、ソクラテスはあっけなく釘をさす。「靴の作り方の知識」のことを君は言ったわけだが、私は「何の知識」ということについて聞いたわけではない、「何が知識」、つまり「知識とはなんぞや」ということなんだ、と。「問題の点はそれではなかったのだ。それは知識というものは何の知識と何の知識があるかというものでもなかったし、またそういう知識がおよそどのくらいの数だけあるかというものでもなかった。なぜなら、われわれの問題は、知識の数をきめる考えで問われていたのではなく、知識をそれ自体として、何が一体それであるか知ろうと思って問われていたのだから。続けて「泥土とは何かって聞いてるのに、泥土には陶工が使うものもあればかまど作りの使うものもあれば瓦作りの使うものもある、とか並べてたらそれは滑稽だろ?」と畳み掛ける。確かに、国語辞書の「泥土」の項目でそんなことをうだうだ述べられていてはかなわないわけで、もっと簡潔に説明してほしいと思うわけである。さらに「泥土とは何かって質問に、人形作りの使う泥土、とか、ほかの工匠の使う泥土とかいって説明したとしても、その泥土がわからない人に対する説明にはならないだろう。同じように、『知識とは何か』がわからない人に『履物作りの知識』とか言われてもわかるわけないだろう」という。つまり、「これ"も"知識だ」なんていうことは言うなという。そこまで言われてしまうと、仮想テアイテトス(私の脳内テアイテトス)は「だったらソクラテスさん、あなた最初に私に幾何学とか天文とかいろいろ並べ立ててさもそれが知識であるかのように語っていましたが、それは本当に知識なんですか。まずソクラテスさんはどういうものを知識と呼んでいるのですか」と問いたくなるのだが、多分ソクラテスは「質問しているのは私の方だ」というだろう。ソクラテスは手軽に答えることができるだろうはずのものをきりのない遠回りをして答えようとするな、という。泥土について「何者が使う」などということは関係ないだろう、誰が使おうが、「土が水にまざると泥土である」と言えるんだ、という。辞書的に単純明快な答を要求しているようである。5章に入る。テアイテトスはそういうことでしたら似たような例を知っていますという。ここから幾何学の話になる。面積3の正方形や面積5の正方形の辺は面積1の正方形の辺と同じ単位では測れない、という話をしだす。現代風に言ってしまえば「ある種の平方根は無理数である」という話なのだが、この時代にはそういった簡単に言い切る名称がなかったと考えよう。これはテオドロスの授業で学んだもので、テオドロスは面積17までやってやめたのだけれども、これはどうやら際限なく続くのは明らかだから、それをひとつにまとめるような言い方がないだろうか、というのをテアイテトスは学友で今対談中の人と同名のソクラテス(創作なんだろうから同名避けてくれりゃよかったのにそうもいかないのね)と話し合った、という。テアイテトスは数を二種類に分けることにした。ひとつは等しいものの掛け合わせになることができる数(1,4,9,16,25...)。現代風に言えば平方数だけれども、この田中美知太郎訳では「正方形数、等辺数」と名付けている。一方、平方数にならない数(2,3,5,6,7,8,10,11...)もある。こちらは小さい数に大きい数を掛けるか、または逆になる数なので、これは「長方形数」と名付けたと説明する。長方形数(平方根)は、それ自体では正方形数と単位を合わせることができないが、長方形数を平面で組み合わせることによって正方形数と単位が合う数と定めたという。ソクラテスはこれに関心するのだが、テアイテトスは「で、考えるに、ソクラテスさんが知識についてお尋ねですが、この平方根のようにはうまく答えられそうにない」と言うのです。テアイテトスがやっていることは「観測して名付ける」ということであって、「それは何か」というものの本質を探求することではない。だからテアイテトスとソクラテスはスタンスが違うのである。しかしソクラテスは執拗に食い下がる。知識なんて、これを見つけ出すのは、ほんの小事であって、万事に頂上を極める人のなすことではないと考えるかね。(頂上の頂上を極める人の、それこそ大いにあずかってしかるべき仕事だとテアイテトスは思いますというのを受けて)それなら、君は自信を出したがいい。むろんその他のこともだけれど、なかんずく知識について、何が一体まさにそれであるかということの言論を把握するために、あらゆる手段を尽くして懸命に努力してみたまえ。こうしてソクラテスはテアイテトスを議論に引き摺り込んでいくのである。