カテゴリ:東北
奥州市の田んぼアートの大谷翔平を見てきました。物見やぐら(巣伏の戦い跡)に登って眺めます。 やぐらの中には、新聞記事の紹介など。ニュースで気になっていた「ホ」の解説も。跡呂井田んぼアート実行委員会の方々の努力に頭が下がります。 やぐらの足もとから水沢市街地方向を眺めます。 やぐらに登る階段の手前に碑文。 次のように書かれています(振り仮名を適宜カッコ表示。また、漢数字をアラビア数字に変更)。 ------------ 蝦夷(えみし)の群像 「胆沢」は、『続日本紀』宝亀7(776)年「陸奥軍3千人を発し、胆沢の賊を伐(う)つ」と初めて登場する。その後、延暦21(802)年に胆沢城がつくられる平安時代初期にかけ古代東北史の歴史舞台となった。 この胆沢の歴史は、国家支配の拡大という歴史の流れにのみこまれていく蝦夷社会をうつしだす歴史でもあった。 宮城県栗原の蝦夷出身の郡司・伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)の乱(宝亀11年)で伊治城(これはるじょう)と陸奥国府多賀城が焼き落され、9年後の延暦8年には、紀古佐美(きのこさみ)の率いる朝廷軍をアテルイ(阿弖流為)とモレ(母禮)が「日上(ひかみ)の湊(みなと)」に敗る「巣伏(すぶせ)の戦い」がおこっている。 そして、延暦13年と20年の2度にわたる坂上田村麻呂とアテルイの「胆沢の戦い」の後、胆沢地方は古代国家の支配に組込まれた。 この延暦21年、アテルイをはじめ多くのエミシたちは、胆沢の肥沃な大地で平穏に暮らせることを願い坂上田村麻呂に降伏するが、アテルイとモレは、河内国椙山(すぎやま)(大阪市枚方市)で処刑された。 胆沢の未来を願ったアテルイとモレ。彼ら「蝦夷の群像」を千年の歴史のなかで見つめ続けてきた北上川とともに、彼らが願った胆沢の未来を、私たちは築いていかなければならない。 胆沢の合戦(レリーフ) 原画・中一弥 (河北新報社 提供) ------------ ■関連する過去の記事 大谷選手ゆかりの学校たち(奥州市)(2024年01月01日) ■関連する過去の記事(アテルイ、東北のエミシなど) 城館の歴史(その2 北東北の城館)(2021年9月25日) 覚べつ城を考える(2015年1月2日)(旧川崎村の河崎の柵) 日本の大合戦 東北は5つ(2012年3月4日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日) 栗原と伊治について(10年7月25日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.08.19 22:22:56
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