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仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

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2024.08.31
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カテゴリ:東北


下記文献の記載から、東北のキリシタン聖地とされる地域について記事にさせていただく。歴史を学ぶことの重要さをかみしめながら、今を生きる地域の姿を考えたい(構成と一部見出しは当ジャーナル)。
高橋陽子氏は、下掲書巻末の執筆者紹介によると、仙台白百合女子大学カトリック研究所客員所員、専門は国語国文学。あとがき(加藤美紀による。同氏は、2023年度まで仙台白百合女子大学カトリック研究所長、2024年度から仙台白百合女子大学学長)によると、東北キリシタン研究会は高橋陽子氏と川上直哉氏(日本基督教団石巻栄光教会牧師、仙台白百合女子大学カトリック研究所客員所員)を中心に2016年立ち上げられた。また、髙橋氏は東北キリシタンを祖先に持つと思われる歴史愛好家として紹介されている。

■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」
 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収
■同書に基づく記事シリーズ
・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)
東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)
東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)
東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)

■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲)
 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日)
 海無沢の三経塚(2010年11月11日)
 カトリック米川教会(2010年11月9日)

1 意気込みをもって探査された驚愕の史実
 かつて『宮城県民新聞』が、昭和22年1月1日の第一号から昭和28年まで続き、同年12月から「県政だより」と名称を変更した現在に至る。創刊号には、「県政の基本を確立」の見出しがあり、戦後の立て直しに向かう姿勢が示される。
 県史編纂のために宮城県史編纂室という部署を設けて昭和25年10月21日に、執筆分担が決定した記事が掲載されている。昭和26年1月には、年頭の顔合わせが開かれ、「調査に精進して」「光彩ある縣史を作りたい」という見出しで、集まった歴史・文化担当10人の意気込みが感じられる。
 歴史担当者は各地域を分担して伝承や文書に関わる家や人を訪ね、次第に隠れキリシタンの存在が明らかになっていく。担当の中心だった只野淳氏の探査の結果が、昭和26年2月11日の地方紙・全国紙に「東北にキリシタン聖地」「長崎を凌いだ仙台藩の切支丹」「貴重なキリスト布教の発見」の見出しが語るように驚愕の史実として報道された。
 聖地とされた大津保村は、1955年まで東磐井郡にあった村(一関市藤沢町大籠、室根村津谷川、藤沢町保呂羽にあたる)。藤原氏の時代から有力な金の産地で、大籠の地名は、秀衡が大きな籠に乗って当地に来たことにちなむとも伝えられる。現在も100を超える金山跡がある。古くは本吉郡に属した荘園だった。

2 探査の基礎資料
 遺跡探査の基礎資料は、村岡典嗣(つねつぐ、東北大学教授)の論文「仙臺以北に於ける吉利支丹遺跡-傳説と史實」(1928年)。村岡は元岩手県立博物館長菅野義之助氏から大津保村に切支丹の伝承・遺跡が多くあることを聞いて、探訪に出かけた。本吉郡狼河原から始まり、大籠、馬籠を訪問。出会った千早東山によって大籠の切支丹の十分な知識を得たと述べている。中でも「栽増坊物語抄録」(当地の歴史と伝説)には、切支丹について次のように記される。
 千松大八郎、小八郎兄弟がこの地に来て、この地の旧家と共に製鉄に従事し仙台領の製鉄の根元となった。兄弟は切支丹で布教に努めたので信者が三万人にも増えた。その後、藩の禁教が厳しくなり刑死してしまった。
 村岡は、この伝説が村社である神明神社の縁起「大籠明神由来記」とも重なる部分があり、大八郎が迫害を避けられず、デウス仏を埋めた場所に石の山神を置いて祀った話や、千松神社、大善神、千松屋敷跡、大八郎墓、首塚など物語に登場する遺跡を歩いて確認した。
 その後、栗原郡高清水町に仙台藩重臣石母田大膳亮宗頼の家老土田甲平宅を訪ね、『石母田文書』に出会う。切支丹関係の文書が46通みつかり、伝承・遺跡と文書が一致した。

3 馬籠地域とキリシタン
 馬籠は調査隊が最初に入った地域。藤沢町保呂羽と隣合せの地域である。調査隊は市明院という寺で、田束山の縁起について書かれた文書の中に切支丹の記述をみつけた。
〔おだずま注。この調査隊とは昭和26年の只野淳氏ほかの探査のことと思われるが、直近の髙橋氏ほかのチームのことかも知れない。〕

3-1 田束山と満海上人
 田束山は金が豊富な平泉藤原氏管轄の霊山だった。当時、七堂伽藍70余坊を有する山で多くの僧がいた。龍峯山(たつかねさん)とも表記し、竜神信仰(水の神)として本吉地方の信仰の山でもあった。
 『志津川町史』では、834-847年(承和年中)に開創された。秀衡が観音堂を建て、山上には羽黒山清水寺(せいすいじ)、中腹には田束山寂光寺、北峰を幌羽山金峰寺と要所に大伽藍を築いた。清衡の四男本吉四郎高衡がこの山を掌ったとも伝えられる。奥州藤原氏が出羽三山信仰を強化して独自の勢力圏を図ろうとした様相が浮かぶ。弁慶の長刀一振りが寄進されたとも伝えられる。
 藤原氏滅亡後、知行地を引き継いだ葛西清重もまた坊僧四十餘宇を建て、家臣の千葉刑部に寺社を掌らしめたと言われるが、葛西氏滅亡後荒廃した。
 昭和46年発掘調査で経塚群が発見され、山上の経筒から約800年以前のものと推定され、平安後期には信仰の霊場であったことが確実に。1632年(寛永9)、田束山に僧坊が立ち並び仏教のメッカになっていたところに、寺が邪宗門改めを容赦なく行ったことで、キリシタンの仏閣への反感が爆発して寺院を焼き払った。田束山の大上坊にある大学院その他の房や入谷八幡社もその時焼き打ちにあったと伝えられる。
 田束山から尾根続きに南西1キロほどの峰を満海山と呼び、山頂の塚が満海上人の入定の地と伝えられて「満海上人壇」という解説板が建てられている。
 伝承では、満海上人は天正年間気仙沼松崎に生まれ、弥勒菩薩に深く帰依し、自ら即身仏になったと伝えられる。また別に、馬籠地区にキリシタンが増えて田束山の四八坊の僧侶は切支丹宗門に転じてしまい、天台宗の満海上人は転宗した僧との法問に敗れ、食を絶って入滅したとの伝承もある。さらに、田束山を預かっていた満海上人が修行から山に戻るとキリシタンの暴挙で霊山は壊滅状態になり、自分の力不足を悲観してせめてキリシタンの非道を後世に知らしめる意をもって入定した、など諸説ある。
 しかし上人の没年が『気仙沼町史』では1567年(永禄10)になっており、キリシタン一揆は1632年(寛永9)である。没年と一揆の年号が『歌津町史』と『気仙沼市史』〔おだずま注、ママ〕では違う伝承で疑問が残るが、キリシタンが力を見せつけようとした伝承として残されている(「田束山中興満海上人伝、清水浜細浦、市明院誌」)。
 田束山の登り口は、
(1)樋ノ口地区から。行者の道と言われ、蜘蛛滝、穴滝など修行場。滝の裏に洞窟。登り口の観音堂には慈覚大師作といわれる不動明王。
(2)払川ルート
(3)小泉ルート
の3つがあり、払川ルートは馬籠に通じる。このルートの登り口から国道346号を横切って北上すると、平泉に向かう。
 田束山清水寺(せいすいじ)からキリシタン蜂起の際に下げてきたと伝えられる細浦の正音寺に四分五寸の金佛坐像(天竺国の佛工作と言われる)があったが東日本大震災の津波で流失した。
 東北キリシタン研究会〔おだずま注、著者の高橋氏が所属しておられる〕が満海上人壇を訪れた。案内板の反対側の小山が壇で、側には送電塔。入滅の後一度も掘り起こしていない当時のままだそうだ。案内板には上人と共に経典なども埋められているとある。 


(おだずま注、南三陸町観光協会のパンフレットから)

以下は当ジャーナルのコメント。高橋氏の御著作では、田束山の登山ルートのうち、払川ルートは馬籠、平泉に通じるとある。

あるサイトでは、登山ルートは、樋の口ルート(行者の滝)、払川・上沢ルート、小泉(気仙沼市本吉町)の3つがあり、徒歩で古来の修行の場や自然を堪能するなら樋の口ルートを、手軽に自動車なら後2者のルート、と案内される。

払川ルートは、山頂から南下し満海山を経由して、払川ダムの上流の県道206号(地図アプリでは歌津字払川の地域)に通じるものを指すのだろう。入谷地区から田束山をめざす道が払川を経由していく。払川はかつて街道の交差する宿場として栄えたという。
払川 in 南三陸観光ポータルサイト)
(なお、みちのく潮風トレイルは、入谷から払川を経由するルート。)

なお、私の場合は、国道45号から歌津IC辺りで県道236号に入り、払川ダムの付近から右折して山に登る道を車で登った。地図アプリでは、この県道236号付近に歌津字上沢(かみさわ)の地域名が見える。「払川・上沢ルート」と称するのは、車で行ける登山道ができる前は、沿岸部から県道236号を通って払川集落までいって上ったからなのか。

話を高橋氏著作に戻すが、同書掲載の地図(p167)では、「払川」が田束山の北に記されている。西に牛王野沢(ごおうのさわ)、北に馬籠、と記される。これだと確かに、「払川ルートは馬籠に通じる」、「払川登り口から国道346号を横切って北上すると、平泉に向かう」との記述(p169)とすんなりマッチする。しかし、払川集落からは、県道206号を北上してつづら折りを越えて馬籠(西郡街道、国道346号)に至るものの、かなり迂遠である。南山麓の払川集落とはべつに山の北側に「払川ルート」があったとは考えられないので、地図で山の北にプロットされた「払川」は、キリシタンの馬籠とその影響を受けた田束山僧坊の関係を重視するあまり、著者が誤解されたのではないかと推察する。


■関連する過去の記事(田束山)
 田束山(2023年05月30日)

■関連する過去の記事(登米市関係)
 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日)
 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日)
 香林寺(登米市)(2024年05月02日)
 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校
 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日)
 ネフスキーと登米(2022年11月9日)
 北上川の移流霧(2021年5月22日)
 登米の警察資料館(2015年5月24日)
 中江その通り(2015年5月1日)
 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日)
 華足寺(2010年11月12日)
 海無沢の三経塚(2010年11月11日)
 カトリック米川教会(2010年11月9日)
 登米市と「はっと」(08年11月30日)
 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日)
 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日)
 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日)
 北上川流域の「水山」(08年2月11日)
 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)





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最終更新日  2024.09.13 08:45:40
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