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2024.09.10
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カテゴリ:東北

■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」
 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収
■同書に基づく記事シリーズ
東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)
東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)
・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)
東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)

■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲)
 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日)
 海無沢の三経塚(2010年11月11日)
 カトリック米川教会(2010年11月9日)

〔前回から続く〕
4 大籠地域とキリシタン
4-1 千早東山
 新聞報道された大津保村の一部、大籠は多くの殉教者を出した。大籠を巡検した東北大学教授村岡氏がまとめたのが、村岡典嗣『仙臺以北に於ける吉利支丹遺跡ー伝説と史実』(改造社、1928年)である。村岡氏が情報を得た儒学者の千早多聞は、父親が千早東山といい、人名辞典によると、「磐井郡奥山村の人で、江戸に出て山地蕉窓の養子となり、儒学者として幕府に仕える。安政の頃故郷に戻り隠遁する。」とある。東山は故郷愛が深く村民に非常に慕われ、明治34年に80
際で亡くなる。
 東山の著書には『大籠往来』と『大籠神明記』、他に『裁増坊物語抄録』がある。この3つを手にした村岡は「これでもう大籠のことはすべてわかったような気がした」と書いている。ただし、『裁増坊物語抄録』は現代人の視点で読むと荒唐無稽と一笑に付されてもやむを得ない。「裁増坊」とは大籠村の百姓で1613年(慶長17)に生まれ、1750年(寛延3)まで地域に生存し、高野山には7度参詣し、93歳から剃髪して裁増坊と称し、130歳まで生きたとある。とすると1792年(元文2)まで生きたことになる。伊達政宗に故郷大籠の地誌などを話したという内容が記されている。村岡氏の論文にはその一部が引用してあるが、栽〔ママ〕増坊は「大籠の地は自然に恵まれ、まるで桃源郷にいるように、心安らかに暮らしている」と話している。現在、大籠に伝わる人名地名などの口伝や伝承に鑑みると、全くの妄想話として切り捨てがたい内容であり、『裁増坊物語抄録』の記述が信頼できるかどうかは別として大きな影響を与えた。
 現在大籠の遺跡、遺物として目の当たりにできるのは、大籠の仙人ともいうべき千早東山の故郷愛の記述に基づく作品が、村岡氏によって発掘されたことによる。

4-2 石母田文書
 その後、村岡氏は大槻文彦著の支倉常長の遣欧使節について書かれている「金城秘韞補遺」に掲載されていた「石母田文書」と出会う。栗原郡高清水町の石母田家に切支丹関係の文書があることを知り、石母田家の家老土田甲平氏を訪ねる。大長持67個に入っていた文書は火災に遭い、小長持に大小23、4束しか残っていなかった。同伴した研究室の大森、重森文学士と共に、二日にわたって調査した結果、キリシタン関係の文書が断片的なものも合わせて約46通見つかった。
 石母田家は元和、寛永の頃、仙台藩江戸詰奉行で政宗の右腕と言われた石母田大膳亮宗頼の家である。膨大な文書を前に村岡氏を奮い立たせたのは、大籠で俗称「塔婆」と呼ばれる地域に1640年(寛永17)の殉教後62年後の1701年(元禄14)に建てられたと伝えられる供養塔「元禄の碑」だった。建立者の氏名が1712年(正徳2)大籠村宗門御改帖に記載されていたのである。地域に口伝えで伝わった石碑は単なる供養塔でなく、殉教者の墓石であった。遺跡と文書が一致したことで、口承の碑であっても、信ずべき検証者であることを知った。以上の資料を精査、実地踏査した村岡氏は仙台切支丹史をまとめようとしていると記している。

4-3 製鉄とキリシタン
 葛西氏滅亡後、旧家臣団は結束して、この地方の特産である砂鉄精錬に注目した。天文年中(1550年頃)まで奥羽地方に鐵の烔屋がなく、千葉土佐・佐藤但馬が備中に行って製鐵法を学んできたが結果がよくなく、1558年(永禄1)、布留大八郎・小八郎兄弟(千松地域に在住し後に姓を千松と改める)を呼び寄せて効率の良い鐵の製錬を行った。その結果、烔屋も増え、はじめは北上川河口(旧追波川)で製錬し、寛永年中(1624年頃から)に飛騨・勘座衛門・駒吉・越中の4人は狼河原に居住して製鐵を行っていた。
 大籠では背の沢(千松沢)から烔屋が始まって八人衆と言われる指導者も生まれて次第に量産していく。鉄砲・武器・農具を生産し、問屋に卸していた。『藤沢町史』によると多くは生活必需品である鍬、鎌、鍋、釜、鉄瓶などを生産している。特に農機具は需要が多かったようだ。烔屋八人衆とは、千葉土佐、首藤伊豆、須藤相模、佐藤淡路、佐藤治、佐藤丹波、佐藤肥後、沼倉伊賀である。この中の多くは葛西氏の旧家臣で馬籠の佐藤家の血縁の者だった。千葉土佐を除いた7人はキリシタンとして成敗されている。
 「安永風土記書出し」(仙台藩では1773年(安永2)江刺郡から始まった地誌)によると、大籠村の人頭数は114人、保呂波村は151人、藤沢村303人だったので、昭和26年2月の新聞見出し「長崎を凌いだ仙台藩の切支丹」「使徒3万人」は信徒の実数ではない。
 1612年(慶長17)、家康が初めてキリシタン禁教令を発し、1613年には江戸でキリシタン狩りが始まった。登録されていた3700人のうち1500人が小伝馬町に送られたが、殆どの者は転んだり、取り締りの緩い奥羽地方の金銀山・鉱山に逃亡した。多くがヤマに逃げ込んだのは、家康が金銀を獲得するため、幕府の直轄地として保護政策「御山五十三条之事」をとったことが要因でした。鉱山に入っている者についての取り調べは不問にするという治外法権が認められ、ある意味安住の地になったのが都合よかった。鉱山の生産様式は基本的に採鉱部門と製錬部門に分かれ、例えば採鉱部門は、鉱脈の探索、試掘、開坑、その後鉱石を採取して坑外に運搬するまでの作業があり、大規模な労働力が集まって一つの町が形成される。佐渡鉄山の最盛期には10万人近く集まっていた。このように多くの労働力を調達するため、外来者は条件なしに受け入れた。仙台藩のみでなく、当時の支配者にとって自国の財原となる鉱山経営のために、鉱山技術者の導入も必然だった。なかには、共同体から脱落した者、遁走した武士、水のみ百姓が雇用され、鉱夫たちの階級が自然に形成された。
 キリシタン鉱夫は他と違い強い絆が必要だった。それまでも日本のキリシタンの組織として、「組」「結」と呼ばれる組織(コンフェリア)をもっており、フランシスコ会では「帯の組」、イエズス会の場合は「さんたまりやの御組」(マリヤ会)を結成して団結した。鉱山では、それぞれの立場で身の安全を保つ工夫をしていたのだ。
 1917年(元和3)年頃の統計では、佐竹藩の院内鉱山の人々は、他国から入っている者の割合が非常に多かったが、仙台大橋袂の広瀬川殉教碑の殉教者と出身をみても、全員がそれぞれ違う国の出身。また、姓の有無で分かるように武士や農民、身分に関わりなく幾筋にも分かれた坑道に隠れていた。カルワリオ神父が捕縛された颪江(おろせ)鉱山(その後渋民鉱山に改名、現在ダムの一部)は、仙台領と佐竹領の境界付近で、カルワリオ神父が秋田へ向かう布教ルートにある鉱山。この時60余人が生活を共にしていた。神父が懇意にしている居者が、柏峠付近にいたと思われる。
 鉄鉱石に恵まれた旧大津保村のたたら製鉄の烔屋跡を流れる川は、いつも赤かったと言われていて、現在も赤く染まった川石があり、流れる水は茶色に染まっている。付近を流れる砂鉄川では川底を掬うといまだに砂鉄が採れる。この地域に他国のキリシタンや宣教師が入り込んでいても不思議ではない。
 千松大八郎・小八郎兄弟が切支丹で、表向きは烔工として布教に努めたという説があるが定かではない。千松兄弟のキリシタンに関わる文書はない。炯屋八人衆の千葉土佐の子孫千葉哲夫氏の屋敷続きの畑の中にある墓群の一番奥に二代目千葉土佐の墓石がある。墓碑には「寛永一八年八月七日、栄寿院顕阿広俊道寛居士 八月七日 千葉土佐 九十七」とあり、側面に「父 狼河原村月山之住累徳曰 母 長坂太郎息女也」とあり、墓の裏面に由緒が刻字されてある。「当国御鐵方根元之始也永禄年中、大綱様御用鉄並東照宮権現公御城御用鉄指上候、当国御両御城御用鉄甚御重宝都而御国用不及申鍬打方上分ニ而菊一菊上天下一与銘目御免之上貞山公ヨリ奥州御鉄方長之家也与有御意末世御鉄繁昌之大祖也」と刻まれ、大籠で採れた鉄は、太閤様や東照宮の権現様に奉納し、最高の鉄製品であったと称賛している。初代千葉土佐は、葛西氏滅亡後、初め歌津村に逃げたが、その後東和町東上沢の月山に居住し製鉄に没頭した。この時41歳、二代目土佐は14歳だった。この後二代目土佐は大籠村に転住。千葉家の屋敷墓は、二代目千葉土佐の墓が一番奥にあり、その前方に千葉土佐の子孫の墓が雑然と置かれる。墓の頭部にキリシタンのマーク(一、1、卍、釣り針)があるので、何代かにわたりキリシタンであったことが推測される。二代目千葉土佐の墓石の上部には「一」とある。初代の千葉土佐も製鉄を行っていたが、南蛮流ではなかったようだ。
 この地域の鉄で農機具がたくさん作られた。「藤沢町問屋及川勘助の取引」の記録によると、天明8年の8月から9月の生産者は保呂羽の3人で賄い、寛政元年には生産者が6人に増えて、岩屋堂や江刺、最上とも取引をしている。天明と寛政の鍬取引数は、4374枚にも及んだ。多くの工人が大籠に入り製鉄を行ったことを物語る。保呂羽の領主の屋敷墓は、後ろに山を背負った一段高い奥に代々の領主の大きな墓石があり、40センチほど下の段に、取り囲むように小さい墓石がある。この屋敷のご当主によると、先祖がいくつか炯屋を持っており、小さい墓石はそこの工人たちの墓だと考えているということであった。この墓の中にもやはりキリシタンのマークがある。大籠地域の屋敷墓には、墓石の法名の上部にキリシタンのマーク、「卍」「一」「心」を多く見かける。


■関連する過去の記事(田束山)
 田束山(2023年05月30日)

■関連する過去の記事(登米市関係)
 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日)
 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日)
 香林寺(登米市)(2024年05月02日)
 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校
 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日)
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 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日)
 華足寺(2010年11月12日)
 海無沢の三経塚(2010年11月11日)
 カトリック米川教会(2010年11月9日)
 登米市と「はっと」(08年11月30日)
 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日)
 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日)
 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日)
 北上川流域の「水山」(08年2月11日)
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最終更新日  2024.09.13 08:44:44
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