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テーマ:離婚・・・その1(30)
カテゴリ:離婚
A1.
一.欧米の離婚法 1.古代ローマでは、離婚は自由であり、ゲルマンでは追い出し(一方的)離婚が認められていたといいます。 2.しかし、その後キリスト教の影響から、ヨーロッパでは離婚を認めないという伝統が長く続きました。 3.近世になって、離婚は少しずつ認められ、啓蒙主義の時代には反協会主義の流れのなかで、離婚の自由も説かれ始めました。 4.しかし、法制度としての離婚は、当初は配偶者の一方に有責行為がある場合に限定していました。 5.今世紀になってはじめて、婚姻関係の破綻を理由に離婚を認めるようになりました。 6.1970年代前後から、アメリカやヨーロッパで次々と離婚法の改正が行われ、離婚原因の拡大が認められました。 7.ただし、協議離婚にも何らかの形で裁判所が関与するという点で、当事者の合意のみによる離婚を認める日本法と異なっています。 8.歴史的経緯からして、西洋には離婚に対する制限的な思想が残っています。 二.日本の離婚法 1.日本の離婚法の特色は、古来から離婚に対する宗教的な拘束が皆無であった事にあります。 2.そして、ヨーロッパとは反対に、離婚が極めて容易に認められるという伝統がありました。 3.ただ、夫からの離婚が容易なだけで、妻からの離婚は認められていませんでした。 4.江戸時代の武家法では、両家双方の「熟談」を示す文書を要求しましたので、夫からも一方的な離婚は認められていませんでした。 5.しかし、庶民法におけるいわゆる「三行半(みくだりはん)」は、有名です。 三.三行半(みくだりはん) 離別状之事 一 此度我等勝手につき、其方こと離縁 致し候。然る上は向後何方へ縁組候 とも、此方より決て差構これなく候。 為後日,仍て件如。 卯正月 生子村 亀吉(爪印) 寺久村 もととの 四. 1.このように、離縁状の本文を「三行半(さんぎょうはん)」で書いた為「三行半(みくだりはん)」と呼ばれるようになりました。 2.もっとも、「三行半」と呼ばれる離縁状は、確かに夫から一方的に妻を離縁するという表現を取っていましたが、現実には夫が自由に妻を追い出せた訳ではありませんでした。 3.江戸時代においても、武士も庶民も、離婚は通常、夫婦双方の親類の間で「熟談」がなされ、協議の上で離縁状の交付がなされていました。 4.したがって、伝統的な日本の離婚法は、実際上は協議離婚が原則であったといえます。 5.しかし、これは、事実上の問題であり、制度的には、夫が失踪した場合を除き、妻から離婚を要求する事はできず、縁切寺に逃げ込むしか方法がありませんでした。 6.縁切寺としては、鎌倉の東慶寺が有名です。 7.そこで、この不都合を解決するために、明治6年に太政官布告162号によって、はじめて離婚を裁判所に請求する権利が妻に与えられました。 8.離婚事由は「已むを得ざるの事故」という一般的な要件のみが挙げられています。 9.同年、夫婦双方からの離婚訴訟に関する手続きが定められました。 10.このようにして、後の民法の離婚法、つまり協議離婚と裁判離婚の二本建てで構成される法構造の原型が誕生しました。 次回は、有責配偶者からの離婚請求について ・・・つづく ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 人気ブログランキングに参加しています。応援宜しくお願いします。 ポチッ! 人気blogランキングへ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 離婚・相続等の法律問題でお困りの方は↓ 櫻井法務行政書士オフィス ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.11.03 21:32:52
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