|
カテゴリ:ソーシャルなワーク
チョモコさんの日記にホームレスについての話題が載っていて、ふと、ホームレスを支援するボランティア団体のことを思い出した。現在私はちょっとイラついた気分で、文章が荒れるかもしれぬが、思いつくことを書いてみる。
市民メディアのインターネット新聞『JANJAN』では、しばしば公園に不法占拠するホームレスに対する行政の強制的な処分について批判記事が出る。彼らの言い分は勝手なので詳細を記憶できないが、おそらく生存権の主張とか、基本的人権の尊重とか、行政はホームレスを殺す気か?といった言い分。ホームレスを養護し、テントを張る彼らと共闘して、武力闘争のごとく激突することすらある。市民運動家の皆さんは弱者を救済していると自覚している様子であるが、これは大きな勘違いなのである。 まず、運動家の人たちはホームレスをひとつの生き方のスタイルという枠に当てはめている。ホームレスという生き方を認めろということなのだろう。彼等はいっけんすると集団のように見えるが、じつはそれぞれに異なる生活暦を持ち、ホームレスになった過程も異なれば、現在の生活についての考え方も違う。「この生活が好きだ」とか「他人の世話になりたくない」という彼らの言葉を鵜呑みにしてはいけない。支援には個別的なケアをする視点が重要。左翼活動家の皆さんは逆に、「僕たちはみんな同志なんだ!」と肩を組み合おうとしがちであるが。 現在の日本において、路上で生活をするという行為は、容認できない形態である。その人の勝手では済まされないのだ。人はみな、住居地を持ち、働いて、税金を納め、社会の一員となっている。働けない者、働かない者も含めて、みな社会を構成する仲間、市民だ。路上で行き倒れている人がいたら、社会はその人を援助しなければならない。場合によっては、暫定的に行政が作るシェルターに収容されることもあろう。そして、しばしば、そこでの生活を不自由に思って脱出する人もいる。人権蹂躙だ、と叫ぶ支援者すらいる。塩むすびだけだとか、大部屋でプライバシーがないなんて不平をいうが、ちょっと待ってほしい。シェルターは自立した生活を営むにあたっての緊急避難場所だ。大地震における体育館とか仮設住宅のようなものだ。行政は、社会資源を利用するように誘導する義務があるし、ホームレスも納得して措置に従う必要がある。 シェルターでは、それぞれにケースファイルが作られ、生活暦、家族といった情報を調査した上で、アパートや仕事探しへと進んでいくのであろう。病気がある人には医療処置がとられ、経済的に自立できない人へは生活保護を給付させることになる。この一連の流れより逃れてはいけない。はっきりいうが、自由とは、社会においての最低限の約束事を守った上で保障されるものなのだ。ホームレスになってしまう人はたいてい借金や犯罪、精神的な疾患といった爆弾を抱えている。ソーシャルワークにおいては、そんな彼らの側に立ち、保護しながら支援しなければならない。借金取りやヤクザの手から自由になれるように、行政は仕事をしなければならぬ。このへん、実際にどの程度、小役人どもが仕事をしているのかが疑問なのだが、役人が手を出さない汚れ役を、NPOといったインフォーマルな組織が代わりに担う必要がある。 「他人の世話にはなりたくない」とは誰もが思う感情だが、相談援助は、その心の扉を開けていくところから始まるものだ。ソーシャルワーカーが理想的に考えるニーズとホームレス自身が感じているニーズが異なることも多いと思うが、ワーカーは少しずつ、ホームレスの考えがプランに近づくようにしていかねばならぬ。エンパワメントといって、その人の強み、特技といった部分をさらに強めてホームレス自身が自信をつけていく方法論が大切だ。 支援には個別のマネジメントが必要という考え方を理解することができれば、闇雲にテント撤去反対!なんてことにはならないだろうし、行政側も、タコ部屋に収容してがんじがらめという高圧的なこともできないだろう。バリケード封鎖する暇がある人には、ぜひ、ホームレスの一人を自宅へ呼んで、あたたかい風呂と一膳のメシを差し上げてみてはどうか。食後にお茶でも飲みながら耳を傾ければ、身の上話のひとつも出てくることだろう。一夜が明けて、自分のテントに戻ったホームレス氏はブルーの天井を見つめながら、これまでの日常では遠ざかっていた何かの感覚が戻っていることに気づくはずである。慈善運動とは、本来、こういう行為の積み重ねなのではあるまいか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[ソーシャルなワーク] カテゴリの最新記事
|