|
テーマ:愛犬のいる生活(77305)
カテゴリ:ブログっぽい?
ペットを人生の友としている人がうらやましいぞ。私にはとても世話ができないな。現在の私はペットにえさを与えることすら億劫。体を洗ったり、病気になったら獣医にみせたりと考えただけでもう勘弁。それでも気が向いたときだけ遊んだりなでたりしてみたい。まったく勝手な心情だ。犬がいれば散歩をする動機にもなり、体力の回復、健康にもよいことはわかっているが、現在滞在する実家では犬・猫の類を飼うことは禁止されている。亀くらいがせいぜいだ。
アパートにいた頃は、近所の猫がときどき遊びにやってきては、ベランダから室内でゴロゴロしている私の様子をじっとみていた。私とペットとの関係としてはこれがベストだな。 仮に私がふと、思い立って保健所にいって犬一頭をもらいにいったとしよう。柵の中で吼えてアピールする犬の群れ。私はじっくり選別して、私がかわいいと思う犬を一頭選ぶ。焼却間近の犬を私は一匹救済したことになって、ヒューマニズムの観点からある程度の満悦に浸るのかもしれない。しかし。 (なんかこの時点でこころにひっかかるものがあるのだ) あとは死ぬわけだ。私が選んだ犬は「かわいい」と私が思ったから偶然生きることができた。ペットとはかくも無力な存在なのである。 私の空想は、ここでお釈迦様の話へと飛ぶ。手塚作品の『ブッダ』で知った。おそらく経典にかかれたお話なのだろうが。 若きブッダが茨の道を踏み始める。ジャングルで瞑想するブッダに、さまざまな動物たちが、食べ物を持ってくる。動物が功徳を求めていたのかな。ある一匹のウサギもブッダのために何かを与えようとするのだが、何も捕獲することもできずに困り果てる。ブッダは火を炊いて、いわばキャンプをしているところにウサギは現れて、ウサギは焚き火の中に身を投じて、わが身をブッダに捧げた。ブッダは当然驚いて、何かを知るという物語だ。人間からみた動物との関係について真理をついている。『どうぞ私を食べてください。』というウサギのメッセージは深い。ブッダはどうしたか。漫画には描かれていないのだが、当然、おいしくそのウサギをいただいたであろう。感謝の心で。 ペットを飼うというなごやかな話題から、ブッダの殺生についての話に展開してしまうところが、この「あいうえお道場」の本領発揮したところである。動物をペットにして心を癒すうらには、ウサギが焚き火に身を投じるというお話までもが長い紐だがつながっているように思うのだ。 野良犬を一匹助けた私は、功徳を得られるのだろうか。ほかの数万匹はどうする。ペットを管理しきれなくなった我々は、野良犬、野良猫に対して無力だ。 そこで私の空想は、シルクロードのテレビで観たウイグル族の市場へと飛ぶのである。ウイグル族の市場では、子猫たちが生きたままで食肉として売られていた。これは悪か。悪ではない。所詮、食べることもペットとして愛玩することも同じようなことではないかと思う。中国には野良猫がいない。野良犬もほとんどいない。もちろんペットとして飼われている場合もある。それでいいんだよな。アマゾンの奥地では、食べきれぬサルをペットとして飼うことがある。子供たちが、仲間として仲むつまじくしている映像を見た。だが、このサルにしても食料が足りなくなった時には食材となるのだ。中国でもアマゾンにおいても、まことに合理的でしかも命を無駄にしてはいないと思う。 つうことで私の暴論は、保健所で殺される動物を貧しい国へ輸出したらどうかと考えるのだ。いけないかしら。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[ブログっぽい?] カテゴリの最新記事
|