動物愛護より遠いところにいる私であるが、それでも生活の中で生き物と対峙することがある。たとえば、ウチのベランダに土鳩が卵を産む。エアコンのダクト?の影に生むもんだから、親父も気づかなくて、「ピーピー!」ひよこが鳴きだしてそこが巣になっていることに気がつく。卵だったらポイ!と生ごみに棄てられるが、ひよこはさすがに棄てられない。ベランダには大量の糞が溜まっていくが、とりあえず放置するのみ。土鳩の問題はマンションの管理事務所でも頭を痛めている問題なのだ。かってに捕まえるのは条例違反らしい。
それから、マンションの掲示板に「猫にえさをやらないでください。」と張り紙がある。張り紙があるってことは猫がいて、そしてえさをやる婆さん(この場合、決まってバーサン)がいるわけだ。私の心は「野良猫の1匹、2匹、いたっていいじゃない」と鷹揚に構えているが、実際にマンションを管理しているおじさんにしてみれば大敵なのだろう。ただ、私には野良猫にえさをやる孤独な婆さん(決まって孤独なの、独居とか)の姿をイメージすることができる。下町の軒先では、野良猫も生息しやすいが、コンクリートのビルにあっては「猫にえさをやらないでください」は完全に正しいのであろう。
私のペット歴はないこともなくて、小学生の頃、ニワトリを飼っていたことがあった。神社の縁日で売られていたひよこを子供の浅はかな考えで購入した。3日で死ぬよ、と家族には言われていたが死ななかったのである。ひよこは、黄色の産毛の下より白い羽を生やしだし、トサカまで出てきて、ある日、ピー!と鳴いていたのがコッコッコ!に変わったのである。ピーちゃん(ニワトリの名前)はたいそう過保護に育てられ、私が学校から帰れば、まず籠から出してやり散歩をさせた。餌もオフクロが貝殻をつぶしたりと鳥の餌のスペシャルドリンクのごとく栄養価のよいものを与えてくれた。ピーちゃんは都内のど真ん中でコケコッコー!と雄たけびを上げ、猫の額ほどの縁側で奔放に育っていった。
4~5ヶ月ほど経って、うちのオヤジが「そろそろだな。」とつぶやいた。小学4年生の私は当然、意味することがわかった。つぶす気なのである。「アレはぜったいうまいよ。いい餌食ってるし、運動もよくやって体がしまっている。肉屋のブロイラーとはぜんぜんちがうはずだよ。」と自慢げにいった。ピーちゃんはオスなので卵を産むという生産性がない。我ら子供たちは純然たるペットとして飼っていたのである。であるが、オヤジもおばあさんも、鶏が成長してそれをつぶして食べるという工程はあたかも神が定めていたように最初から決まっていることなのであった。そして幾日か経ち、私はピーちゃんをしっかりと抱きしめ、母親とともに肉屋を訪れた。店の前では目をつぶり、毛をむしりとられた鶏が籠にいっぱい入っていた。(のどを突くんだよね)
ピーちゃんをつぶしてもらうのに200円払ったと記憶している。つぶすまでは威勢のいいオヤジだったが、結局、肉をウチで賞味することはやめた。私はピーちゃんを食べなくて済んだのである。肉は叔父の家にやったのだが、「ちょっと硬かったがいい味だった」と叔父さんの一家はこの特別な鶏を堪能したのであった。
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