「ジャパニメーションはなぜ敗れるか」「カーニヴァル化する社会」
最近どうも「物語」を読もうという気になれない。なぜかは不明である。というわけで、久しぶりの読書は「新書モノ」である。「ジャパニメーションはなぜ敗れるか」キャラクターが「身体」を持った、というのがジャパニメーションの特徴だそうである。すなわち、ドアに挟まれるとペラペラの紙状になるディズニーのキャラクターに対しジャパニメーションのキャラクターは出血し骨折する。これを最初にやったのは手塚治虫の「勝利の日まで」という戦中の漫画らしい。ディズニーのモノマネから始まった日本の漫画が手塚を分岐点にして独自の表現を深化させ「文学」にまで昇華させた、と、いうわけである。と、そのへんまでは興味深いが、それが「なぜ敗れるか」のくだりは平板で面白くない。ひとつは、結局ハリウッドによって「刈り取られている」だけで「勝った」わけではない、という構造的敗北。もうひとつは、単純な「興行的敗北」。あと、戦中戦後の漫画黎明期の分析がやたら長くて、現代の分析がやたら短い。(ガンダムにいたっては2行である)「カーニヴァル化する社会」いわゆる「現代日本人論」である。誰かの何かの本で(著者と題名は完全に忘れた)「ここまで言うつもりはないが」という例にあげられていたのが本書である。(これでは何の説得力もないが)近代的自我の代名詞のようなテーゼにデカルトの「我思うゆえに我あり」というのがあるが、これが現代においては「我は我なり」となっているそうである。そしてその「我」は場面場面によって「データベース」から引き出された「ネタ」としての「キャラ」になっているというのである。したがって現代人に求められているのは、いかに「おもしろいネタ」を「データベース」から引き出せるかの「感性」である、ということだそうだ。またこの情報の「データベース」化は価値の平準化を生んでいる、(確かに例えば「ア行」の「愛」と「アメンボ」はデータベース上はむしろ「アメンボ」のほうが情報量が多い)と言うのである。薄っぺらな本のわりには「ニート」「監視社会」「宗教」と扱っているトピックが多く飽きさせない。ある視点ではあるが確かに「そこまで」感はある。また、歴史観がすっぽりぬけているので「いつごろから、なぜそうなったのか」がわからないし、説得力に欠ける。ただ、「日本が何でこんなに疲れるのか」のヒントにはなると思う。