現代のエロス
エロティシズムとは禁止の侵犯である。生殖活動とは何の関わりもない。労働の発生によってたまたま生殖活動が禁止領域になったためそれへの侵犯がエロティックな雰囲気をまとったにすぎない。というバタイユの分析は以前も書いたが、現代においてセックスの禁止はもはや無い。セクシャルなエロティシズムは風前の灯火である。それを知ってか知らずか女性はムキになって肌の露出を始めたが教育勅語的な道徳観の復権でもなければ生殖活動のエロティシズムへの復権は難しいだろう。時代はなかなか後戻りしないものである。現代のエロスは「暴力」である。現代ほど人間が本来持っている「暴力への意志」が封殺された時代は無い。かつては傷害や殺人に至らないほどの暴力は容認されていたのである。たとえば学校教育においても教師の体罰は当然であった。殴られる生徒は殴られて当然の事をしたのである。しかしこの「殴って当然」「殴られて当然」は「殴らなくて当然」になった。(子供相手に教師も大変な時代になったものである)しかし過剰な禁止は侵犯への魅力を増大させる。防犯カメラに映し出された犯罪の瞬間やK1ファイターの壮絶なKOシーンに現代人が魅了されているのはそのためである。また、「犯罪のための犯罪」も急増している。(愉快犯相手に警察も大変な時代になったものである)