「主観」「客観」
ここ100年あまり哲学界では「主観-客観」論争というものが続いており、もはや世人を啓蒙する「哲学」と言う意味は失ってしまっている。すなわち、「本当の客観性はあるか」ということである。ニーチェなどはズバリ「ない」といっている。あるのは各人の「主観」のみで人間の数だけ真理があるということである。さて、イラクで2人のジャーナリストの方が亡くなったようである。心からご冥福をお祈りする。彼等は彼等の「真理」に基づいて行動したのであろう。だから彼等の行動の「客観的是非」は問わない。(このへんは5/6付日記と、そのコメントを参照して頂きたい)しかし、彼等が殺されるのではなく、誘拐されたらまた「自己責任」を問われるだろうか。「責任」とは何だろう。イラクで人質になった人々に対して「責任も取れないようなことをやりやがって」と言いたいのであろう。これはもし自衛隊が撤退した場合はその責任は人質にあるということなのだろうか。(私は今回の自衛隊派遣は公共の利益になるとは考えていないため撤退すればいいと思っていたのだが)この場合どう責任をとればいいのだろう。責任のとりようがないから民間人はイラクへ行ってはいけないということだろうか。義務や権利と違って「責任」とはあいまいな言葉である。私は「主観的」には責任のとれない立場のひとをなじるときに日本人が好んで使う言葉であると思う。彼等にハラスメントをしかけた人達はその犯罪的行為に責任をとったであろうか。このように、この世界は、それらの、さまざまな「主観」が「カオス」として存在しているだけのものとニーチェは説いているのである。そしてアメリカにはアメリカの、イラクにはイラクの思惑があるであろう。二枚舌で申し訳ないがこのへんは「客観的」に考えたいと思う。まずもって、米英のイラク侵攻は明らかに「侵略」だと思う。9,11以降のアフガン侵攻はまだ整合性が理解できる。タリバン-アルカイダのラインが明白であったし、タリバン側はビンラディンを引き渡すつもりはなさそうだったからである。だが、今回のイラク侵攻はその理由づけがあいまいすぎる。フセイン政権とテロリスト、核兵器、と関連づける証拠がひとつもないのである。何万人もの犠牲者をだす戦闘行為へのゴーサインとしては、あまりに貧弱である。どさくさまぎれに反米産油国をたたこうという真意が見え見えである。フセインは独裁者ではあったが彼を倒すのはイラク国民の仕事である。政権崩壊後、内戦状態にでもなったら平和維持軍でも派遣すれば良かったのである。イラクでは「民主選挙」が行われるようである。もしそこで「親米政権」が誕生したら、その「民主性」も疑わしいものである。