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カテゴリ:周辺事態
読売新聞に、こんな記事がありました。
大学卒業に認定試験、教育再生会議分科会が検討で一致 政府の教育再生会議の第3分科会(教育再生)は20日の会合で、大学の学部教育の質を担保するため、卒業時の認定試験の導入を検討することで一致した。 分野別に試験を実施し、試験結果を基に大学が卒業を認定する仕組みを想定している。5月の第2次報告に盛り込みたい考えだ。 会合では、出席委員から「極端に言えば九九が出来なくても大学に入れる」などと、大学生の学力低下を懸念する声が相次ぎ、4年間の学部卒業時に何らかの認定試験を設ける必要性で大筋合意したという。 また、学部教育での〈1〉到達目標の設定〈2〉成績評価の厳格化〈3〉語学や文章作成力など各学部共通の基礎教育の充実――なども検討する。学部教育を充実させ、より高度で専門的な人材を育成する大学院教育につなげるのが狙いだ。 分科会の中嶋嶺雄副主査は記者会見で、「授業に出席すれば、学力が身につかなくても安易に単位が認定される現実がある」と指摘した。 (2007年3月21日2時14分 読売新聞) まあ、基本的には賛成ですね。 別に各大学や学部によっては「九九」ができなくても卒業できていいんです。 その人にとって学ぶべきことを、しっかりと学んでいればね。 そういえば、何年か前某国立大学で非常勤講師をやったとき、ガクゼンとしたことがあります。 提出されたレポートに、あまりにもヒドイのが少なからずあったんです。 講義を聞いていなかったとか、理解できなかったとか言う問題じゃない。 小学生の作文以下というものがいくつもあったんですよ。 ちなみに大学のレポートというのは、大した文章力を必要としません。 (わたしの講義では) 内容をカンタンにまとめるなり、感想疑問反論意見を書けばそれでよろしい。 (わたしの講義では) 句読点の間違いや「てにをは」の間違いなどは多少あっても構わない。 (このブログを読んでいる皆様なら、いかにわたしが同様の間違いを連発しているかをご存知のはず(笑)) それでも、かの大学生たちの中には「悲惨」とまで言いたくなるようなものが少なくなかったりします。 文章というのは、実のところ大して難しいものじゃないんです。 文章とは、「話している言葉を文字という活字に置き換えているだけ」のことなんです。 だから、その人の文章を読めば、その人と話すのに準じるくらいに「人となり」が出てしまうものです。 最高学府たる大学で学んでいる人の文章が、あまりにもヒドイというのは、ちょっと情けない。 国語とか、文章能力というのは、学問のもっとも基本的なところに位置していて 「ぼくは理系だから文章は苦手」 という人だって、文章の読解力と答えを表現する力なくして、算数も理科もできやしない。 繰り返しいいますが、別に各大学や学部によっては「九九」ができなくても卒業できていいんです。 しかし、その学生が「ナニを学んだか」ということが、重要なことであると思います。 それは小学校でも中学高校でも同じであるのかも知れません。 で…… わたしは過去ナニを学んできたのだろう…… それは言えないレモンの ヒ・ミ・チュ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年03月21日 14時35分04秒
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