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不登校・ひきこもり・ニートを考える

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巨椋修(おぐらおさむ)

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2008年05月21日
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カテゴリ:総合


「はじめにロゴス(論理)あり、ロゴスは神とともにあり」


― 新約聖書 ヨハネによる福音書 一章一節 ―






論理とは、「筋道の通った話し」という意味です。


その論理を研究した学問が、哲学であり論理学です。


論理学は、「シロクロをハッキリとつける。中間はない」というものです。


つまり、オール・オア・ナッシング的思考法と言えます。


この考え方は、限りなく数学的です。


間違っているか? 正しいか?


間違っている・正しいを、言葉や数式にして、解を出すのです。


近代から現代文明は、この論理学的な思考法によって、発展してきました。


自動車が走るのも、飛行機が飛んでいるのも、パソコンが使えるようになったのも、すべてこの論理的な計算や、答えの結果できるようになったのです。


それを見ただけで、この論理学的思考法がいかに優れたものであるかが、わかるでしょう。



しかしシロクロをハッキリつけることが出来にくいものがあります。


人間という生き物です。


前回、社会主義と資本主義について書きました。


20世紀という100年をかけて、「富と権力の分配」を目指す社会主義と、「自由と競走」を目指す資本・自由主義のどちらが優れていたかが、決着したという話しです。


結果は、社会主義の社会では、理想とは逆に、富の格差、失業、貧困、独裁、餓死、虐殺が、資本・自由主義社会よりも、はるかに頻発し、そして社会主義国のほとんどが潰れるか、方向転換を余儀なくなりました。


オール・オア・ナッシング的思考法だと、「社会主義的な考え方はすべてダメ」、「資本・自由主義的な考え方のみ正しい」という解がでるはずです。


しかし、人間や人間社会は、数の計算のように、シロクロがハッキリつくものではないのです。


資本・自由主義の要諦(ようてい・ポイント)は、“自由競争による淘汰”にあります。


よって、弱肉強食が正しい。


これを豆腐屋さんに例えると

力のない豆腐屋は倒産し、力のある豆腐屋がのし上がるというのが、正しい。


これが社会主義体制であると、豆腐屋はひとつの町にひとつだけに限定する。


よって、豆腐屋の倒産はありえない。


全国の豆腐屋は豆腐一丁100円と限定する。


すると価格競走がおきないので、ますます安定すると考えたわけです。


しかし、人間というものは気まぐれで、安定するとサボったりする。


豆腐の原材料である大豆が、毎年同量の収穫があるとは限らない。


天災もあれば人災もある。


ノルマにあきたらず、もっと安くて美味しい豆腐を作ろうとしても、それは「みんな一緒」の方針と違いますから、許されません。


よって、最終的に社会主義国は立ち行かなくなってしまったのです。


資本・自由主義体制だと、町にいくつ豆腐屋があっても良い、値段も自由につけてよい。


味が良かったり、値段が安かったりと、お客に人気がある豆腐屋は栄え、サボったり味が悪い豆腐屋は淘汰されるということになります。


20世紀をかけた社会実験は、資本・自由主義が正しいという答えがでました。


はたしてそうだったのか?


資本・自由主義社会は、完全に「弱肉強食オンリー」であったわけではありません。


失業した人には、失業保険という制度が


破産した人には、これまでの借金がチャラになるという破産制度が


生活が困難である人には、生活保護という制度が


年金や健康保険といった制度が、弱肉強食社会、競走社会のフォローをしています。


これらの制度は、社会主義的な考えでもあります。


オール・オア・ナッシング。


シロかクロか、生か死かという二つに一つという極端な考え方では、人間という生き物に対処できません。


シロ派であろうと、クロ派であろうと、他派の良いところはどんどん取り入れるべきでしょう。


人間という生き物はシロでもクロでもなく、その中間でうまく生きていくものなのでしょう。




「はじめに論理あり 1」の最初に述べましたが、現代文明の二つの潮流


芸術と科学、大学風にいうと文系と理系という潮流があるわけですが、科学や理系は、数字で、あるいは論理的に、解決や考えることができます。


しかし、芸術や文学、絵画、音楽、哲学というのは、数字や論理のみで解決や考えることは困難です。


これらは、感性や雰囲気、好き嫌いといった感情、情緒的なものあるからです。


古代ギリシャの時代、芸術家と科学、文系と理系はひとつでありました。


レオナルド・ダ・ヴィンチは、芸術家であると同時に、最先端と科学者でした。


ガリレオもニュートンも、科学者であると同時に哲学者でもありました。


一方に片寄っては、どこかにヒズミがでる。


ユガミがでる。


学問だけではなく。


思想だけではなく。


人として、真に豊かでありたければ


論理だけでは不十分です。


感情や情緒だけでも不十分です。


論理と感情。


論理と情緒。


この両面が充実していなければ、どこかイビツになる。



「はじめに論理あり、同時に情緒と感情あり」 


人は論理的に考え、情緒的に行動するというのが、豊かな生き方なんじゃないでしょうか?
 



少なくともわたしは、論理のみ、情緒や感情のみの生き方よりも、車の両輪のごとく、論理と情理をつき合わせて、人生に対処したいと思っています。



(完)







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Last updated  2008年05月21日 08時32分41秒
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