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カテゴリ:幸せに感じる時
今の人というとオニオンがいつの人なのか疑問
メタオニオンとでもいうか、これを書いてるオニオンはこれを書けと命令してるオニオンとは違います。脳みそとミーティングしてないので、おそらくショートカットといえるかも。。 そこでなんですが、20世紀ころから特に人間はいろいろ便利を求め、「無駄」という余裕を排除して、もっともっとを求めています。オリンピックで更に早く、更に高く、更に遠くなど記録を競い合うことばかりです。 無論、それ以前にも生存競争はあったし、戦争も続いてましたけどね。。 「もっと」を求めたおかげで、生活が豊かになったのでしょうか。。欲しがるのは本能からなのかもね。。 そこでひとつ、「もっと」良くなるというのと「もっと」悪くなるというのがあります。二極化というモノですが、悪くなってることと良くなってることは裏表なので同時に発生してます。 例をとるとシーソーでは、高く上がればその反対側は低くなります。小さな子供はポンと上に上がった時に叫んで喜ぶか怖がって泣き出します。大きな子供は面白がって何度もポンポンと自分より小さい子供をあげます。体重が重いだけ簡単に地面に落ちますから、小さい子供と延々と遊ぶことが出来ます。 また、電気自動車のために鉱山が荒らされて、それに伴う人災はメディアでは無視されてます。自動車を買えば買うほどに、鉱山は消えていくということ。。 常に今ここ起こっているのです。 幸せに感じる時は、同時にその逆のことが発生しているということなのです もちろん↑の幸せは相対的世界での観念ですが、絶対的世界では「幸せ」なんて言葉も観念もありません。よって仏教で説く時、涅槃や浄土の「幸せ」というのは方便にすぎません。 以下もっとマニアックですが、あくまでも「幸せ」は「不幸」の反対です。涅槃や浄土のことは我々凡人の言葉では語れないのです。だってそこには言葉というモノが存在しないからです。いや、存在するしないというと、そこで相対になってしまうのですね。。XXでZZでないと言った途端にです。我々は相対の世界という観念から抜けることはできないのです お釈迦さまは悟った内容が誰にもわかることはないし言葉をどんなに尽くしてもわからないからこそ、涅槃にこっそり入ろうとしたのですね。ところが梵天が引き留めて、無駄かも知れないけど、なんとか我々に説いてくださいとお願いします。悟っているから拒否もできずに、お釈迦様は凡人に説くことをアクセプトしたわけですが、そこから終わることのない仏教というモノが始まると言います。 どうせ言葉では伝わらないならということで、方便を使うのです お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年12月18日 00時00分10秒
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