予定外のこと。。
やると思ってなかったことをしてしまっている、なんてことはありませんかね。。この前にも書きましたが、平常のリズムを破るのにはいいかもです。マンネリになって息苦しい時なんかね。。無理に探すことも無いですが、なんとなくやる気になったら即行動に移しましょう。多くの人が毎日を結構規則正しく、ルーティンに従って起床して、食事や家事しているのではないでしょうか。。別にそれがどうというのでもなく、そのほうが楽だからです。敷かれたレールの上を行くほど楽なことは無いでしょう。もちろん進んだり転がっていくにはそれなりのエネルギー源である食事や勉強があります。つまり日常の活動です。ところが、そんな楽な生き方に満足できないで、xxをもっと欲しい、yyになりたいとか今ここに不満になって自ら苦しんでいる人が多いですね。今ここをアクセプトして感謝すればいいだけなのにねぇ。。すでに決められている予定というか、運命というのでしょうか、どんなに逆らっても、そのレールの上からはみ出ることがないのですね。分岐線に入ることもありですが、結局は多少の景色の違いはあっても同じところに行きついてしまうのではないか。。しかしながら、ひょんなことで分岐線に入ってしまって、景色が変わりパラレルワールドみたいなところに行っちゃったりね。。そしてそこが主のレールになっていくと行きつくのも同じところなのでしょうか。。お釈迦様が説いた「苦」ですが、人生ではすべてが自分の思い通りには行かないことが「苦」だと言いますが、むしろ予定通りに行くことが苦だというのではないかと思います。(知らない間に)自然に分岐線に入ってしまうということは、それが自分が選んだからでなく、そういうようになっているからではないでしょうか。。決められた結婚式を目の前にして、教会に行かずに駅に行くタクシーを呼んでしまう。それは自分の予定ではなく、自分の想いを優先したいからと思っても、実はそうなるようになっているのではないかと。。目の前に敷かれた立派な道だけでなく、横道もバイパスも寄り道も回り道も迷い道も獣道もどれもどこかに行きつく道があるのです。どの道に入ってもいいのです。選ぶのは自分なのです。まっすぐな道よりそこを行きたければ、それでいいのです。自分にはわかっていなくても、そこを選んでいることがあります。それはそれでいいのです。たのしむことです。ちゃんとした道が用意されているからこそ、安心して他の道に行けるのかも知れませんよ。たとえ、逆戻りはできない道であっても、そうやって迷うために我々は生きているのかもね。。それが「楽」ではないかと。。また、諸行無常といって続かない儚さを「苦」だと言いますが、すべてが変わっていくからこそずっと苦しまないでいいのではないかと思うのですけどね。。仏教の「苦」についてはまだまだ考察続きますが、答えの出ないことを考えるようで、こんなのして何の意味があるのかと問うこと自体が「苦」しく、「楽」しい生き方だとオニオンは受け止めてます。もちろん、どこを見ても「苦」なのだと書いてますので、生きるのは「楽」ではないとあります。それはそれでいいのですが、どうしても自分で考えたいという自我がいるのですね。。どこか遥か彼方から、人間たちがレールの上を右往左往してるのを眺めてため息ついているダレかがいるのかもね。。そしてクククと笑っているかも。。昔見た孫悟空のアニメで、孫悟空がお釈迦様の手のひらの上を飛んでいるのシーンを思い出しましたわ。。