ネルソン・マンデラ
後期に共通科目の「アフリカ研究c」という授業をとった。私は、南アフリカにおける人類の自由闘争を授業で学び、ネルソン・マンデラのカリスマ的リーダーシップに惹き付けられた。 南アは十数年前までアパルトヘイト(人種隔離)政策が実施され、黒人は長い間法的に差別を受けてきた。1913年に原住民土地法が出されたときに初めて「アパルトヘイト」という言葉が登場したが、人種差別は1800年代にはすでに形成されていた。たとえば当時、南アの人口の72.8%もいる黒人が、南アのたった7%の面積しかない原住民保留地(リザーブ)に住まわされるなど、人間らしく生きる数々の権利を奪われていた。1948年の総選挙でNP政府が成立すると、アパルトヘイトは一層強化された。公共施設での隔離といって、海水浴場も、工場の入り口も、更衣室も区別されたのだ。 ネルソン・マンデラは、そんな南アを理想的な「虹の国」にしようと、人権闘争を行った人物である。彼にはカリスマ的なリーダーシップがあった。授業で紹介された話では、マンデラの出獄の日(1990年2月11日)、彼を出迎えたのはたくさんの報道陣や民衆だった。マンデラは、予想外に多くの人々に囲まれ驚いたとともに、仲良くなった刑務所の職員に最後の挨拶ができなかったことを悔やんだそうだ。27年間もの長いあいだ、民衆はマンデラを慕い続け、彼の出獄を願い続けた。出獄3日後には、ソウェトのスタジアムで12万人が結集して、マンデラの演説に熱狂した。民衆のマンデラへの期待と信頼がうかがえる。また、彼をきらっていた牢獄の看守を味方につけてしまう(のちの大統領就任式に特別ゲストとして招待する)ところがとてもユニークである。それは同時に、マンデラの求めた平和像を象徴している。マンデラは自叙伝『自由への長い道』のなかで、「白人たちを追い払ったりすれば、国が荒廃するだろう。白人たちの恐怖と黒人たちの希望のあいだには中間地帯があるはずで、それを見つけるのが、わたしたちアフリカ民族会議(ANC)の仕事だ」と記している。マンデラは黒人を苦しめた白人退治をしようとしたのではなく、アパルトヘイトの撤廃をして、白人と黒人が共生できる南アを築こうとしたのである。 2001年9月11日に起きた同時多発テロで、自ら陣頭指揮に当たったジュリアーニ前ニューヨーク市長は、「リーダーシップは、自然に発生するものではない。人から教わったり、学んだり、自分で築き上げたりするものだ。わたしに影響を与えたすべての人が(中略)わたしの行動指針に貴重な貢献をしてくれた。」と論じている。ではいったい、マンデラをカリスマ的リーダーに仕立てた人は誰であったのか。 マンデラは、23歳のときヨハネスブルグに移り住んだ。この頃には黒人の実業家などはほとんどいなかったが、例外が不動産会社を経営していた。ウォルター・シスル(南アフリカ民族会議ANCリーダー)である。マンデラにとっては黒人が事務所を持ち、タイピストを置いて仕事をするなどは思いもよらなかった。マンデラは彼の影響で法学を勉強した。さらに、政治の世界にも興味を持つようになった。シスルが重要メンバーであったANCは、白人少数支配に対抗する最初で最大の政治組織である。 また、シスル同様マンデラに多大な影響を与えたのは、同じく弁護士を目指す才気あふれるオリバー・タンボである。タンボの頭の良さはマンデラもかなわなかった。 さらに、リーダーシップの範となる人物がいる。インド独立の父、マハトマ・ガンジーである。峯陽一は、「大衆的な非暴力抵抗運動を通じて独立をかちとったインドの経験は、当時のANCの活動家たちにも強い印象を与え、四〇年代末から五〇年代の反アパルトヘイト運動の輝かしい模範のひとつとなった」と解説している。マンデラは、ガンジーの「非暴力主義」と「和解思想」に共鳴した。そして、アパルトヘイト被害者に、政府側の挑発にどうやって抵抗するかを教える機会をもち、決して暴力を使わないように徹底的に訓練したのだ。参加者全員がこの方式を受入れた。 以上の3人が、若きマンデラにリーダーシップを身につけさせた人物であると、私は思う。 それでは、マンデラの闘争はいかなるものか。どのような態度だったのか。なぜ民衆が彼を支持しようと決心できたのか。 マンデラは、どんなに状況が困難でも、常に真っ先に立ち上がった。ジュリアーニ氏は、リーダーシップに不可欠な指針として「自分の目で見よ。みずから範を示せ。」ということを強調しているが、まさにその通りに行動したのがマンデラだった。彼は、ストライキの指導や市民不服従の計画をした。また、法廷弁護士として、圧倒的な存在感を示した。傍聴人だけではなく、検察官も判事も通訳も、さらに警官までもが彼に注目した。それだけ、彼の演説には力があった。 民衆の団結力は日に日に増していった。同時に、いつも闘争の中心にいるマンデラへの尊敬や信頼が大きくなっていった。政府は非常事態を宣言し、反政府運動をした者を次々に投獄した。むごたらしい事件も起きた。当然ANCもPACも非合法化された。マンデラは誰かが地下に潜って運動を指揮しないとだめだと感じ、あらゆる困難を覚悟してその役目を引き受けた。あらゆる覚悟とは、この場合、「死」を意味していた。gooブログからマンデラの闘争に関する文章を引用する。文中の「この時」とは、国家反逆罪で終身刑となり、同志たちと一緒にロベン島送りとなった1962年を指す。 「この時マンデラの行なった演説がつめかけた民衆の魂を奮い立たせた。それは『私は白人支配と闘ってきた。黒人支配とも戦ってきた。民主的で自由な社会を理想に掲げてきた。人々が平等の権利を持って協調し共存して行ける社会である。私はこの理想の実現のために、生涯を賭けている。その為の必要とあれば死をも厭わない』と言うものである。」 自分が生きて牢獄を出ることはないと自覚していたマンデラは、自分より若い仲間が出獄できたときのために、ロベン島で勉強会を開いた。その様子を榎泰邦は「マンデラやシスルーを中心に『ロベン島大学』と称して、お互いがそれぞれ得意な分野を教授し合って、切磋琢磨した」と記し、さらに「獄中から通信教育制度を利用して、南アフリカ大学(UNISA)や英国など海外の大学から学位を取得したロベン島組もいた」と記している。マンデラはロンドン大学の通信教育を続けて法学士号を取った。また、新聞で世界の政治・経済の動向をひとつひとつ知っていった。ロベン島のメンバーたちは、学びあうことで、過酷な獄中生活にもかかわらず人権闘争をしているのだという意識を保持増進することができた。 アパルトヘイトの廃止が宣言され、マンデラは釈放された。釈放当時71歳であった。戦いのスタートであった。94年の総選挙でマンデラは大統領に就任したが、釈放から総選挙までの4年間の和解のプロセスは「現代の奇跡」とまでいわれるほどの大偉業である。 彼は5年の任期を終え99年に政界を引退した後も、平和の使者として行動し続けている。 マンデラの闘いは、問題の本質・解決の方法を民衆にわかりやすく指導したり、加害者側の心を揺り動かしたりする、生きた言葉によるものだった。休むことなく先頭に立ち続けることで、民衆を鼓舞し、民衆を厳護し続けた。過酷な人種差別や自由抑圧に対する闘争で、一番難しいことは「希望を持ち続けること」である。それを可能にしたものは、彼の存在そのものだったのではないだろうか。私には、マンデラが先頭に立って闘うと、民衆の動揺やあきらめの心は消え去り、勇気づけられるのだろうと感じられた。マンデラは民衆の希望の太陽だったのだ。榎氏は「この国は、何千、何万ものミニ・マンデラを生んだ」と、南アの闘争の賜物を賞賛している。私は、この表現がとても好きだが、ひとつ修正したい。「生んだ」のではなく「生み続けている」の方が適切だと思う。なぜなら、将来彼の偉大さを学ぶ多くの青少年が「ミニ・マンデラ」となって、数々の問題の平和的解決に奔走することが予想されるからだ。それほど、マンデラのリーダーシップは超越したものであると思う。 南アの経験から学ぶことは多いが、その中でもマンデラのリーダーシップを学ぶことは人生をよりよく生きるのに役に立つと思う。また、平和な世界を築くのに偉大な力をもたらしてくれると確信してやまない。