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テーマ:■ムービー所感■(484)
カテゴリ:イギリス映画
わたしがインドを訪れてから、すでに3カ月。当時の日記のタイトル『A PASSAGE TO INDIA』は、この作品から取ったのでした。 フィアンセを訪ねて、義母(アシュクロフト)と共に、イギリス植民地時代のインドを訪れたアデラ(デイヴィス)が経験する、心理的な変化と戸惑いと幻覚。1920年代のイギリス女性にとって、異境の地で受けるショックは、たぶん計り知れない。 目には見えないエネルギーに圧倒される国。人の多さ、酷い暑さ、汚穢、匂い。インドの風土に触れると、みずからの観念を覆される変化に、出会うときがある。個々の意識が消えて、もっと大きな生命の意志みたいなものに触れる時がある。 冒頭から聡明であったはずのアデラは、この国のエネルギーに飲み込まれて、しだいに動揺を隠せなくなり、ありもしない幻覚をみてしまった。この国に弾き返された、彼女の痛い経験が、インドのすごさを何よりも物語っていく―――。 異文化を理解する難しさや、有色人種への偏見、イギリス人支配へのインドの反撥。 植民地時代を背景に、大河ドラマの大家デヴィッド・リーンらしいスケール感で、様々な問題が描かれていた。 それでも一番の核となるのは、やはりアデラの心。絵に描いたようなイギリス人らしさで(シニカルとみるとおもしろい)結婚に悩み、この国に動揺し、反英運動に巻き込まれていくのだった。 婚約者を前に揺れていたとき、彼女は、異国の親切な医師アジズ(バナルジー)と出会う。 ふたりは、お互いに、すこしずつ惹かれ合っていく。 ある時、アジズは、アデラと義母を大がかりなピクニックへと連れだす。しかしこの一日が、大事件へと発展し、決定的にふたりの将来を分けてしまう・・・・。 (↓ アジズ。渡辺謙にみえてくるので可笑しい) アデラが、ガジュラーホーにあるような、ミトゥナ像(男女交合像)を尋ねるシーンや、インドの結婚制度について語るシーンなど、ところどころに性を感じさせる演出があった。 それが伏線だったのだろう。 ピクニックで訪れた神秘的な洞窟で、アデラはパニック症状を起こし、大けがを負って運ばれる。そして、アジズに暴行された・・・と、ありもしない証言をしてしまうのだった。 アジズは身柄を拘束され、彼女のフィアンセが判事を務める裁判所で裁かれることになる―――。 嘘の証言をしたことを「情けない」と、一蹴するのはかんたん。でも、なんでそうなったのかがわからない。心身喪失にしろ、優しかったアジズのこともフィアンセのことも裏切った、聡明だった彼女の、情けない姿が痛い。 演出によるものだとは思うけれど、いつまでもショックを受けたまま言葉もはっきり発しない姿に苛々が募る。 結局、法廷で、アジズの無罪を認め告訴を取り下げたことを、彼女の勇気だなんて美化する気持ちにならないから、よけい当惑して、このあたりから最後まで、物語についてゆけなくなってしまった。 冤罪に傷ついたアジズは町を去り、反英運動が盛んになったインドをアデラは去り、、、傷ついた者同士を繋ぐのは、英国人教授フィールディング(フォックス)。 ふたりの共通の友人であるフィールディングは、数年後、アジズを探し出し再会を果たすのだ。 誤解とわだかまりが解けて、はじめてアジズはペンを取り、アデラに手紙を書く。 長い時間を経て、遠いインドとイギリスの地で、ようやくふたりの心は溶解するのだった―――。 このフィールディングという人もまた、前半では気さくで魅力的な好人物なのだが、後半からは掴みどころない人になってしまう、、。 名女優ペギー・アシュクロフトが演じた義母さえ、後半では存在感をなくし、船上であっけなく死を迎える。 本作はヴィッド・リーン監督の遺作。氏の大作はどれも好きだ。撮影当時は70代、インドでの撮影を思うと、タフさに感心してしまうけれど、後半の尻つぼみ感は、晩年のパワー不足なのかもしれない。 大作の大味にはならず、心の機微まで描いてきたリーン監督にしては、本作は伝わらない感情の場面が多かったように思えてならなかった。イギリス人では、この作品はどう評価されているんだろう。 監督・脚本/ デヴィッド・リーン 製作/ ジョン・ブラボーン リチャード・B・グッドウィン 原作/ E・M・フォスター 撮影/ アーネスト・デイ 音楽/ モーリス・ジャール 出演/ ジュディ・デイヴィス ヴィクター・バナルジー ペギー・アシュクロフト アレック・ギネス ジェームズ・フォックス アダム・ブラックウッド (カラー/163分/A PASSAGE TO INDIA) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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