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カテゴリ:仏教、神話、哲学
十二因縁について書いてみる。 このテーマはこれまで何度も書いてきた。しかしどうも理解できないでいる。 なので毎回いろいろな解釈の仕方を探っている。 さて今回思ったのは「無明」について。 これは無知であると言われている。 私のこれまでの解釈は概念としてだった。 無明とは何を表しているのだろうと考えてきた。そして何か哲学的な解釈を施して納得しようとしてきたのだ。 しかしそれは奥深い概念とかではなく、今我々は真理に対して無知であるという現実を示しているのではないかと思った。 だから無明とは「不確定性原理」であるとか、「根本的無知」であるとか、そういう奥深い意味ではない。 そう。我々は今何もしらない。この現実。だからこの出発点は皆平等であるはず。 そして行(業)が発生する。あるいは行は(記憶)と解釈してもいい。 そして識は(判断)だ。 記憶が判断に影響を及ぼし、現実世界への認識を作り出してゆく。 だから十二因縁が前世であるとか、果ては来世に因縁がおよぶだとか、そういう時間的因果とはまったく関係がない。 今ここにある現実を述べている。 そして無知なままに体の感覚器官からの情報に執着して限られた狭い世界の中で生きている。 無知であるが故に捕らわれる本当の輪廻だ。 もしかするとお釈迦様は、六道輪廻を説いていないのかもしれない。 お釈迦様の説いた輪廻は十二因縁という具合に。 だからこの世界は無知を土台として成り立っている。 そして智慧を「ああだ、こうだ」と説いていない。 そんな言語で真実を語れるものではない。 言葉で語れるのは迷いの現実だ。 ではどこでこの因縁を断ち切るのか。 愛欲の段階である。「愛」(執着)を断ち切るのである。 それが戒であったり、ヴィパッサナー瞑想であるということだ。 あらゆることを意識に上げて言葉にして、手放す。 これによってお釈迦様は解脱した。 因果の論理は凡夫に働く。解脱すれば因果の束縛をうけぬ…と思う。禅僧は否と云うかもしれないが。 解脱し、仏となれば空の境界に生きると思う。 業因縁は智慧の光となり、衆生済度の道となる。 識と名色の間は「唯識」の段階である。すべては識の作り出したものと見る。 外界(名色)もまた識の作り出したもの。その識も行(記憶・業)が作り出したということになるが。 シンクロニシティもここで働くのだろう。 心(識)が名色(外界)とリンクするのだから。 そしてそこに言語が発生する。これは法身の言語なのかもしれない。 つまりリンクするということは、意味にならぬ意味を伝えようとしているようにも見えるからだ。 これがヴィパッサナーの(言葉にする)、(実況中継する)に通じるのではないだろうか。 しかしこの、心(識)と名色(外界)の間で発生する瞑想はサマタ瞑想なのだと思う。 心の奥深い処まで下りてゆき、その意識が外界と繋がるのである。 そこで真言と繋がるかどうかは分からない。 真言は「内証智」の言語だからである。 つまりは果分不可説なるところのものを、敢えて言語にしたものが真言なのだ。 法身の言語たるものが真言ということになる。 識が名色と一体にならんが如き結びつきを見せるのは迷いの深まりかもしれないし、そうでないかもしれない。 シンクロニシティをどう認識すべきなのか。 自我の及びもつかない言語を世界が発するのである。 ならば無明から発した因縁ではなく、智慧から発した無因縁=共時性ということになろう。 業を断ち切り「今ここ」ですべてが一体となる。 しかし言語化できないので、法身の言語でもって「自我」に語り掛けてくる。 自我にとっては恐怖であろう。自己解体にも等しいのだから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年09月09日 10時17分59秒
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