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2024年09月09日
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カテゴリ:仏教、神話、哲学
シンクロニシティは法身のヴィパッサナー瞑想なのかもしれない。
それが自受法楽でもあって。だから現実と言葉との符合が起きる。

ヴィパッサナー瞑想は心や体感の実況中継である。
その実況する言葉が真実であれば、それを手放す。そうして執着から解放されてゆく。
言葉にすることは同時に意識化することである。
なるだけ無意識に行っていることを意識化して、表層意識に上げてゆく。

もしそれが深層意識、如来蔵たる内証智の奥深くにまで至り言語化に至ったなら真言を口にするということになるかもしれない。

ところで、「生まれる」ことだとか「亡くなる」ことというのも、シンクロニシティではないだろうか。
上手く説明はできないのだけれども、あれは客観的に見るものではなく主観的・主体的に見るものだ。
だから「これらの事態は私にとってどういう意味を持つのだろうか」と問うてゆくことでシンクロニシティが発生する理由であり、それらを突き詰めてゆくと「生まれること」「亡くなること」は決して客観的なものでなく、主観的・主体的なるものと見るのが正しい。


この世に在ること自体がシンクロニシティである。
生存していることは「主観的」なことだから。
主観的であるから心的に「主体的」に生きることであるし、そうすることですべてが法身の説法であり自身が本来法身であること、外界はヴィパッサナー瞑想の言葉であり、元型に生きていることが分かる。法身の座は帝網の鏡の中を自在に移動する光である。大日は主観的主体である。しかも自在である。シンクロニシティに生きるとはそういうことなのかもしれない。





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最終更新日  2024年09月10日 23時59分52秒
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