菩提心と実存主義
陽明学では「良知」というものを説く。良知とは「先天的に備わった理性知」のことです。まあ儒教(儒学)ですからね。仏教と違って五常を説くんですね。仏教は「無常」ですから常を説くことはありません。しかし儒教(儒学)は説く。しかしこの良知というものを仏教語に変換すると仏性ということになるでしょう。仏性ということは如来蔵であり、仏心でもあるということです。そういう意味で違うけど同じという感じで、理解が深まります。さらに「衆生心」と訳すこともできるでしょう。「起信論」を読み込んでいる訳じゃないですので詳しく説明はできませんが、「仏心=衆生心」というラインが出来上がる。そこからユング心理学の「普遍的無意識」に結びつけることもできるでしょう。「衆生心=普遍的無意識」ということです。それらは自己とは異なる存在。独個ではなく共有される心です。他者と共有されるる巨大なブースターのような存在です。自己は本来無一物ですからね。自己に所有するものは無いですし、自己すらも空であるのです。自己の当体は存在しない。だから良知であろうが普遍的無意識であろうが、それらは自己の正体とはなりえない。だから共有されるもの。ブースターと表現した訳です。そして涅槃経には仏性は不滅だか何かと書いてあったと思います。うろ覚えで申し訳ありません。しかもそれはアートマンではないものです。そういう意味で業ではありませんが、自己に付き従う「何か」があるんでしょうね。何かといいますか、それは仏心なんでしょうが、そうなると「三密」にも繋がってきますね。そして法身に至る。そうなると法界体性智と同じでしょうか。奥深いですね。そして心が共有されるから「慈悲心」が生まれてくる。自他の区別が曖昧になり、また他者を自己の如く感じる。これは普遍的無意識を呼び起こす。他者と共有している心のようです。そうなると世界外存在である自己とは別種のもの。他者に対して哀れみの感情が生じる。儒教では「仁」でしょうか。孟子は「惻隠の心」と云います。陽明学ではそのような「良知」を生まれながらに持っていると云う。サルトルは「実存は本質に先立つ」と申しましたが、良知は本質に近い。そして自己は実存に近い。人は世界を初めから知っている訳ではない。よく知らない。それが普通の人間です。自己と世界との接触点に実存は出現する。ともかくも存在してしまった私。その私を探る旅が実存主義です。世界の中での私を発見してゆく。考え、判断・選択をし、自己像を作り上げてゆく。仏教ではそれを迷いの世界と説く。誤った自己像を描く輪廻の原因なのです。自己とは世界から隔絶された存在です。だから世界の束縛から解放して本来の場所に返してあげなくてはならない。それが解脱です。仏です。二度と生まれ変わってくることはない存在。それが本来の自己。つまり如来蔵が成り立つ。心の中にある自己は本来この世界の住人ではない。世界外の存在なのです。修行とは自己と世界との分離を目指しているんですね。しかし実存主義は三界の過客という視点を持たず、世界の中に自己を作り上げようとしている。先天的に解脱しているのが自己=仏です。同じく良知も先天的な存在ではあるが、それは自己ではない。後天的な行動として良知に至り、また良知を開発してゆく必要があると考える。「知行合一」もその考えと同じであろう。初めから良知を具えているから、良知を目指すことができる。そしてアーラヤ識は良知とは異なる存在だ。アーラヤ識は経験(業)を蓄積した後天的に作られた存在。輪廻する当体と見ることができる。厳密にはアーラヤ識は先天的な存在ではない。そういう意味でアートマン(我)と仏性(自己)とは異なる存在だ。では見る者と見られるものとの差別はどこで行われるのか。これは識であろう。識の対象が客観と云われ、識の内側が主観という訳だ。主観と客観、どちらが本来的な存在だろうか。これは主観側であろう。主観側の存在である識が客観体を作り出す。識は本来空である。だから修行によってアーラヤ識は生滅する。自らを客観だと間違って認識してっしまったのがアーラヤ識なのであろう。言ってしまえば世界自体が客観の権化のようなもの。世界を客観とは観ず、主観的なものとして観るならば、世界は生命活動する法身と観ることができる。アートマンは客観的な存在であり、仏性は主観的な存在。世界に住所を持たぬ存在。では密教は梵我一如と謂うがこれは本当に正しいのであろうか?ここでアートマンという用語に触れておくと、インド哲学的にはアートマンも解脱した自己と見ることができます。しかし仏教に於けるアートマンは解脱した自己とは見ていない。客観的霊魂のような扱いです。お釈迦様が否定したアートマン(我)はこれのことです。密教も仏教でありますので、この解釈に従います。そうすると、梵我一如と同一であるとは見做せないでしょう。解脱した自己(仏性)と、世界(法身)とが一体になるのです。ここで行われているのは自己と世界との分離ではなく結合です。密教瞑想は結合の瞑想ということなのでしょう。さらに面白いのはここに実存が出現することなんですね。自己と世界との出会うところ、菩提心が生まれるのです。しかし実存主義とは実現する自己像が異なるのだと思います。密教ではどのように解脱を実現するのか。否、どのように解脱を実現させて「いた」のか。世界が自己に何を説かんとしているのかが、ここからのテーマとなるでしょう。