自心中の仏説
不完全性定理とは、自分で自分の正しさを証明できないことである。帰納法で帰納法の正しさを証明できないように。その刀が自体を斬れないように。そこで他を求める。客観的に、第三者の立場で、理性的に正しさを証明する必要が出てくる。しかし、第三者の視点が絶対に正しいとは言い切れない。第三者の視点ではそれが正しかっただけだ。そこで第四の視点で第三者の視点が正しさを証明する。だがそれも絶対ではない。第五の、第六の、第nの視点と……。だが客観に完成はない。この輪廻の輪から逃れることができない。どこまでも主観が客観に介入する。それを物理法則にまで落とし込んだのが不確実性原理。観測が対象に介入する。絶対的な客体は存在しない。つまるところ人間原理の世界に還元されてしまうのだ。カントの「物自体」も世界を正しく認識できないことを指す。正しさの根拠を他に求めても無駄だ。つまりは、正しさの根拠を「客観」に求めたり、「神」に求めても、その正しさを証明することはできない。まずは世界を主観で見てしまうという現状を認めないといけない。そんな純粋精神の視点で人生を歩むのが修行者であり、瞑想でそれらは培われる。その説は「唯識」である。一切は心の認識である。そう認めることである。しかし唯識は真理を説く教えではない。間違っているという現状認識論だからだ。心があるから(間違って)生まれてきてしまった。認識を持っているから人生を歩み始める羽目になってしまった。二度と生まれ変わってこな方法を修行者はずっと求めてきた。ありもしない対象に執着する。それを罪と考える。だからかぐや姫は天上界で「愛する」という罪を犯し、地上に生まれ変わってきてしまった。天上に帰るとき羽衣を掛けられると人間らしい感情を失ってしまう。現世への執着を失ってしまったのだ。何もない空に近い真理を説く三論宗。しかし泥土と真理との繋がりを説く天台宗。仏教にとっての経典。仏教のルールブックのような視点を持つ法華経。さらには無限の真理の展開を説く華厳宗。そして密教は自心に流れる仏説を解き明かす。