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聖歌は生歌

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 かねみき@ 持ち物の聖歌集は? +主の平和! 持ち物として書かれている…
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2006.10.23
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カテゴリ:全ブログ共通
 先日来、お伝えしている『日本のミサ曲』と『ミサ曲・賛歌集』の件ですが、一応の、めどが立ってきました。そろそろ、各ブログも、通常の更新に戻れると思います。
 ところで、過日の記事で、著作権法違反があたかもかくていしたかのような表現がありましが、
今のところ、この点については何の判断も示されていませんので、この点ついて、お読みの皆様に誤解を与えかねないものだったことは、お詫びしたします。
 さて、著作権法の問題はさておき、『ミサ曲・賛歌集』については、神学的な観点から、気になることがあるので、この点について、考えてみたいと思います。
 まず、第一に、これが一番の問題かもしれませんが、この『ミサ曲・賛歌集』の使用範囲と、タイトルがはっきりとしないことです。タイトルには『ミサ曲・賛歌集』とありますから、実際的な内容から言えば、ミサ賛歌(あわれみの賛歌・栄光の賛歌・感謝の賛歌・平和の賛歌)と、さまざまな賛歌がその内容になりますが、実際には、主の降誕や聖週間の典礼の答唱詩編なども含まれています。ですから、実際の内容とタイトルに微妙ですがずれがあるわけです。
 次に、『ミサ曲・賛歌集』は、あくまでも個人の編集です。今回は、長崎大司教認可で出版されていますから、長崎大司教区での使用には問題がないかもしれませんが、それが、日本全体のなると、一教区の司教の認可だけではなく、日本の各司教区全体の問題です。そのために、司教団に典礼委員会があるわけですが、今回、典礼式文に当たる「復活賛歌」の楽譜に手を加えたり(「復活賛歌」は内容からも、奉献文と同等の性格を持つものです)、答唱詩編が基準となる『教会暦と聖書朗読』(いわゆる「オルド」)と全く異なるものしかありませんので、まるで、典礼委員会を無視した選択をしていると思われても仕方ありません。とりわけ、『ミサ曲・賛歌集』の詩編は、『聖書 新共同訳』が用いられていますが、日本の典礼委員会は、数年後に、フランシスコ会聖書研究所訳を底本にして、新しい訳を採用することを発表しています。それまでは、既存の『詩編 典礼訳』(あかし書房)を使用することになっています。なぜなら、典礼文の国語の使用については、あくまでも、司教が決定することで、日本のように、複数の司教区で同じ言語を使用する場合には、複数の司教(日本の場合は日本司教団)の協議によって決定するからです(『典礼憲章』36条§3、§4参照)。
 これが、あくまでも、個人の(編著者が大学内のミサだけで)使用というように、”ad usum purivatum”なら問題ないのかもしれませんが、序文を見ると、日本のカトリック教会全体の使用を目的としているようですから、司教団(第二バチカン公会議が決定した、使徒たちの後継者としての、司教の団体性=この点については『教会憲章』第3章参照)の権威を無視した行為、と受け取られても致し方ない部分があります。なお、修道会の場合には、その修道会ごとの独自の聖歌集がありますが、この場合、修道会は教皇ないし司教の認可を受けていますので、問題はありませんが。
 もうひとつは、歌詞の神学は語られていますが、聖歌全体の神学が語られていません。たとえば、ホームページでも、書いていますが、「栄光の賛歌」の大きな区切りは、「全能の父なる神よ。」です(詳しくはホームページをご覧ください)が、『ミサ曲・賛歌集』に収められている「栄光の賛歌」ほとんどが、「感謝し奉る。」で、区切りになっています。第二バチカン公会議で発布された、現在の『ローマ・ミサ典礼書』(”missale Romanum")以前の作曲ならば、既得権として認められますが、それ以後の作曲では、この、新しい区切りにする必要があります。つまり、厳密に言えば、「感謝し奉る。」で、区切られている「栄光の賛歌」は、第二バチカン公会議以後の、ミサの神学に適応していないもので、神学的に誤りといわれても仕方ないのです。そのような「栄光の賛歌」が、ほとんどと言うことになると、神学的観点と言う理念も、少なからず、問題になります。
 先にも書いたように、日本の司教区全体の聖歌集を編纂する、と言うことになれば、やはり、個人の編集と言うレベルで行うべきものではありません。歌詞の内容も音楽も、あるいは、典礼文(詩編のことばなど)も、教会共同体の司牧者である、司教の任命によって決められた典礼委員会やその他の専門委員会のもとで行うものです。
 今回の『ミサ曲・賛歌集』の編集・発行には、教会共同体の霊の共同識別と言う、教会共同体の本質的な伝統が、残念ながら欠如していたところにも、問題があったのではないかと思います。
 最後に、今回の事件で思い出したことがひとつあります。今は、司祭になりましたが、当時、神学部時代に神学生だった学友の一人が教会音楽家は謙虚でなければならないよと言った一言です。今回の、楽譜の書き換えが、間違いなのか、間違いを正したのかは、最終的には神さまが判断する問題です。しかし、このような、複数の教区にまたがる教会共同体に関わる問題は、一個人が簡単に判断する問題ではなく、司教団の権威のもとに考えるべきものではないでしょうか?確かに、正しいことであったとしても、やはり、このようなことは、一個人や一部の信徒と司祭だけで行うものではなったのです。あえて言えば、教会共同体=司教団の権威のもとに行うべきものを、一個人が行ってしまった事、すなわち、神の前に謙虚さを失ってしまったことが、最も大きな問題なのではないかと思います。
 神の前に貧しい人は幸いと言うマタイ福音書の山上の説教の最初の一言、=それは神しか頼ることをしないということですが=言い換えれば、神の前にいつも謙虚であることを、いつも忘れないようにしたいものです。





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Last updated  2006.10.23 19:52:16
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