年間第20主日(B年)の答唱詩編
18 いのちあるすべてのものに【解説】 この答唱句は、詩編から直接取られたものではありませんが、詩編145全体の要約と言うことができます。この、詩編145は、詩編に7つあるアルファベットの詩編(他に、9,25,34,37,111,112,119。 詩編の各節あるいは数節ごとの冒頭が、ヘブライ語のアルファベットの順番になっている)の最後のものです。表題には「ダビデの賛美(歌)」とありますが、この「賛美」を複数形にしたのもが「詩編」(ヘブライ語でテヒリーム)とですから、詩編はとりもなおさず「賛美の歌集」と言うことになり、詩編はまさしく歌うことで本来の祈りとなるのです。 旋律は、ミサの式次第の旋法の5つの音+司祭の音からできています。同じ主題による123「主はわれらの牧者」がミサの式次第の旋法の5つの音だけだったのに対し、ここでは司祭の音であるB(シ♭)が加わりますが、ミサとの結びつきと言う点での基本的なところは変わりません。それは、この二つの答唱詩編で詩編唱の音が全く同じであることからも分かると思います。 冒頭の「いのちある」では旋律で、最低音のD(レ)が用いられ、バスは、最終小節以外は順次進行が用いられることで、すべての被造物に生きるための糧=恵みが与えられる(申命記8:3参照)ことが表されています。終止部分では、バスで最低音が用いられて、それが顕著になると同時に、ことばも深められます。一方、「主は」に最高音C(ド)を用いることで、この恵みを与えられる主である神を意識させています。この「主」の前の八分音符は、この「主」のアルシスを生かすと同時に、「すべてのものに」の助詞をも生かすもので、この間の、旋律の動きはもちろん、精神も持続していますから、緊張感を持った八分音符ということができます。なお、「ものに」は、「の」にそっとつけるように歌い、「にー」と伸ばすことがないようにしましょう。 詩編唱は、4小節目で、最低音になり、低音で歌うことで、会衆の意識を集中する効果も持っています。【祈りの注意】 答唱句は、旋律の動きはもちろん、歌われることばからも、雄大に歌うようにします。いろいろなところで、聞いたり指導したりして感じるのは、答唱句が早すぎるのっぺらぼうのように歌うの二点です。指定された速度、四分音符=60は、最初の速度と考えてみましょう。二番目ののっぺらぼうのように歌うことのないようにするには、「すべてのものに」を冒頭より、やや早めに歌うようにします。また「いのちある」を付点四分音符で延ばす間、その強さの中で cresc. ことも、ことばを生かし、祈りを深める助けとなります。 後半は、「主は」で、元のテンポに戻りますが、だんだんと、分からないように rit. して、答唱句をおさめます。なお、最後の答唱句は「食物を」の後で、ブレス(息継ぎ)をして、さらに、ゆったり、ていねいにおさめるようにします。この場合「食物」くらいから、rit.を始めることと、答唱句全体のテンポを、少しゆっくり目にすることで、全体の祈りを深めることができるでしょう。 第一朗読では、箴言しんげんが読まれますが、この中で「知恵」といわれているものは、教会では伝統的に主キリストをさしていると解釈しています。5節にある「わたしのパン、わたしの調合した酒」とは、まさしく、主キリストのからだと血です。これが、ヨハネの福音書の朗読の原型となっており、その橋渡しとしてこの答唱詩編が歌われます。ですから、この詩編唱は、ミサに参加するわたしたちすべての感謝の祈りと言うことができます。特に、今日歌われる、詩編唱の7節にある詩編の15+16と10節は、古くから教会の公式の食前の祈りとして、用いられてきました。「食前の祈り」もいろいろな祈り(やり方)がありますが、この答唱句と詩編唱の7節を歌うことも、教会の伝統の祈りに結びつくものと言えるでしょう。この詩編を朗唱されるかたはもちろん、これをこころにおさめるわたしたち一人ひとりも、この「永遠に生きる、まことの食べ物、まことの飲み物」に結ばれて、「一つの心、一つの体」=キリストのからだに作り上げられてゆく恵みを、深く心に納めたいものです。《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『ミサ』(詩編の節は異なります)【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)