四旬節第4主日(B年)の答唱詩編
28 エルサレムよ,おまえを忘れるよりは【解説】 詩編137は、バビロン捕囚から帰還した民が、捕囚時代を振り返って嘆く歌です。捕囚後、バビロンは悪の代名詞となり、「黙示録」にしばしば登場します(16:19,17:5,18:2など)。ここでは、エルサレムやシオンへの強い思い入れが《同義的並行法:対句法とも言う》で強調されています。このように、捕囚の屈辱を嘆くことから、この詩編は、捕囚からの解放直後、まだ「ネヘミア記」が書かれていない頃の作と考えられています。 この答唱詩編は、いくつかの特徴があります。珍しく、テージス=1拍目(小節線の後)から始まっていること答唱句と詩編唱が、基本的に、旋律・和声ともに同一の構成でできていることしかし、答唱句と詩編唱の楽譜の表記法が異なることなどです。もし、答唱句を詩編唱と同じ王に表記すると、エルサレムよおまえ を*|忘れるよりー は*|わたしのみぎて が*|なえたほうがよ い*|すなわち、太字は全音符、斜字 は八分音符、|=小節線の前は四分音符となります。 反対に、詩編唱をすべて八分音符で表すと(*=八分休符:以下同じ)、バビロンのながれのほとりにすわーりー*|やなぎにたてごとをかけー*|シオンをおもーいー*|すすりないたー*|という具合に、太字が自由リズムの1拍目=テージスとなります。 この答唱詩編は、このように、詩編唱の歌い方が、答唱句でも表されているので、大変参考になるものです。 さて、答唱句でも詩編唱でも、バスとテノールは、ほとんど1小節の間、音を持続させていますが、これによって、エルサレムやシオンを思う強い決意が表されています。特に答唱句の「エルサレムを思わず」と、詩編唱の「異国の地にあって」では、6度の和音がソプラノとバスが2オクターヴ+3度開いてことばが強調されるばかりではなく、その前の、もっとも安定した和音である、この曲 h-moll の主和音の第5音の省略されたものから、すぐに6度のこのような和音に移ることで、緊張感も高めています。 答唱句の終止和音は、主和音の第五音=D(レ)が省略されたもので、これは調性を決定する音を欠いていて、これによって、神が現存するエルサレムやシオンを強く思う、こころが強調されています。 この曲は、作曲者が長年研究して自身のものとした、グレゴリオ聖歌のこころ(精神)と手法が存分に発揮された曲の一つです。【祈りの注意】 答唱句と詩編唱の歌唱法が同じであることは、解説のところでも書いたとおりです。このコーナーでもしばしば書いていますが、詩編唱の、字間があいているところで、のばしたり、息継ぎをしたりといったことは、絶対にやらないでください。たとえば、詩編唱の1節の三小節目でシオンをーおもーいー あるいは シオンをー*おもーいー といった歌い方は、絶対にしてはいけない歌い方です。 詩編唱の冒頭は、緊張感を持った pp 始めましょう。これによって、こころの奥底から、前半のことばがにじみ出るようになることが大切です。どの歌も、芝居のせりふもそうだと思いますが、歌っている、あるいは、語っていることばを作った作者自身に、あるいは、自分が同じ境遇になりきって歌う、語ることがなければ、伝わることはありません。その状況・情景を思い浮かべるとか、作者のことを思う、くらいでは不十分です。わたしたちも、常日頃、こころの底から、神を、そして、神のおられる天のエルサレムを一瞬でも忘れ、喜びとしていないなら、「右手がなえたほうが」「口が聞けなくなったほうがよい」と思っているでしょうか。この答唱句は、「~~したほうがよい」と歌いますが、言い換えれば、いつもそう思っているかを問われていることでもあると思います。 第一朗読の歴代誌では、バビロン捕囚と解放が簡潔に語られていますが、詩編唱を歌う方は、この、大いなる不幸から、今、自分が解放され、その悲惨さを現実に体験したものの一人として歌っていただきたいと思います。また、それには、蛇足かもしれませんが、第一朗読を担当される方も、この朗読を、ニュースを読むようなもととしてではなく、かつての悲惨な出来事を、聞いている人々のこころとからだに再現させるように朗読していただければ、この、答唱詩編も全く違ったものとなって来るでしょう。【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)