気遣い
先日来、気遣いということについて考えていた。正確には、時々人が話す「気遣い」について疑問が生じていた。例えば、お年寄りに席を譲ったら礼を言われなかったとする。気遣いでもあり、親切でもあることだが、それを人に話すときになぜか「せっかく譲ってあげたのに・・・」と怒りを顕わに表現する。それを違和感を持って聞いていた。譲ってあげたかったから譲った。それで良いじゃないか・・・と。まさか礼を言われたいが為に譲った訳でもなかろう。礼を言われた方が気持ちがいいのは確かだが、譲りたかったから譲ったのであれば、よほど横柄な態度を取られていない限り腹を立てる必要など無かろうか。先日、友人達に彼を紹介すべく一緒に呑んだ時、私の友人達は、無口な彼に凄く気を遣ってくれた。しかし、無口故、反応がいまいちだった。私が席を立ったときに、一人が彼に向かって怒り出した。私への気遣い、他の者への気遣いから怒り出したことだと分かったが、それこそ「見返りを求める気遣い」って気遣いと言えるのか・・・と言う疑問が、ここ数日経ってからもたげてきた。違うと思う。気を遣わなければいけないのかもしれないし、それに対し、気が付かなくては行けないのかも知れない。しかし、気が付かないからと怒ることはやっぱり違うのではないかと思うのだ。確かに、気が付かないことは気遣ってくれた人に対して失礼だろう。しかし、それを期待してはいけないのではないだろうか。彼は不器用だと思う。私がもっと気が付いて、彼を上手に皆にとけ込ませてあげれば良かったのだ。聞かれた事には精一杯答えるが、会話を広げる事が苦手な人だ。それが分かっていながら、私も彼を助けなかった。友人が怒ったのは、私の気遣いが足りなかったせいであり、彼は被害者なのかもしれない。しかし、彼のお陰で長いこと疑問だったことの答えが見えた気がした。誰かがやらなければならないことがあると、彼がいつもやっていた。だからといって、「いつも俺だよ。」と愚痴ることは無かった。反対に「ありがとう。」と言われたり「エライね。」などと言われようものなら、何で言われるのかが分からずきょとんとしていた。彼にしてみれば「誰か」は誰かであり、それがいつも自分であったからといって気にならないらしい。つまり、見返りを求めて行動していないから、言われる覚えも無いのだ。これこそ、本物の気遣いと言えないだろうか。と思うのだ。そんな彼を好きになった自分が誇らしいとさえ思えた。