『大』 野村萬斎さんといえば、狂言だけでなく様々なジャンルでご活躍です。ここからは各ジャンルごとに転機となった作品をお尋ねしていこうと思います。
まずは本業の「狂言」。どの作品が転機となったとお考えですか?
『萬』 「そうですね。中学生・高校生くらいまでは、半ば、猿回しの猿のようにやらされている感ていうのはあるんですけど、その中でも父の三番叟というものに憧れてましてね。三番叟というのは狂言史の中でも唯一の舞踊曲でもあるんですけど、そのまぁ、かっこいい舞を17歳の時にやらせてもらったんですね。これですけども(写真)ここで父がギロっと睨んでいますね。まぁ、これをやってやっぱり「あぁ、マイケル・ジャクソンに負けない舞踏が狂言にもあるんだ」と、自分の身をもって感じたりして、まぁ、これからやっぱり僕が狂言をしていこうといった時に、自分の武器は何になるかというと、やっぱり3歳から身に着けてきた狂言かなぁという思いはありましたね。」
『大』 この足元が激しい感じですよね。(三番叟披キの時の写真を見て)
『萬』 「そうですね。非常に足拍子の多いんですけども。重要なのはこの足をこれだけ高く激しく上げたり下げたりするのに全身がぶれないっていうことが重要なわけですけどね。」
『田』 狂言師としてステップアップするうえでは重要な。。
『萬』 「そうですね。自転車に乗れるようになった感じとか、みなさんが自動車の運転免許を持って、初めて運転していろんな所に急に行けるようになっちゃうとか、そういう世界観の広がりがありましたね。」
『大』 次は「映画」です。転機となったのはどの作品でしょうか。
『萬』 「そうですね。「乱」という黒沢明監督の作品でありますけども、えー、鶴丸という盲目の少年の役をさしていただきました。笛を吹く。。んですけどね。」
『田』 これ以前にも映画の出演はあったのですか?
『萬』 「いや。これが初めてですね。狂言以外の作品に出るというのはこれが初めてだったんですけれども。さっきの三番叟の写真を黒沢監督が実は・・見初めてというか。本当は、これ僕17歳の時に撮ったんですけど、10代前半の能楽師の息子を紹介してくれと父にちょっと依頼があった時に、うちの母がさっきの三番叟の写真を・・17歳の僕の写真を紛れ込ませたんですよ。そしたら、そっちの方がいいってことになって(笑) で、まぁ、大きくはなっ・・監督のイメージよりはまぁ年のいっている人ではあるけれども、それは演技をしてもらおうということで、笛をちゃんとこの時、吹いたりしたんですけどね。」
『大』 お母さんが忍び込ませたのは狙いがあったんですね。
『萬』 「うん。まぁま。そうですね。狂言というものを最終的にやるにしてもですね。やっぱり、どちらかというと裾野を広く持っていた方が山は高くだろうと、そういうような発想で、いきなりそれにのめりこむのではなくて、広くスタンスを構えなさいという発想でしたかね。」
『大』 映画っていう風になって、その時どう思いましたか?
『萬』 「今まで自分が培ってきた、教わってきたものってのは狂言の為の、舞台の為のものだったのが、こういう映画っていう創作のもの、古典でないものになると自由に使っていい。監督がOKするかしないかですけども、こうではなくては絶対いけないってことではなく、初めて演技して表現するってことに、なんか自分の思いが結びついて、やっぱり狂言の技術っていうのはいろんなものに使えるんだなって、こういう広がりを感じる転機になりましたね。」
『大』 続いて次はこちらです「テレビドラマ」。テレビドラマといえば、あれですかね。
『萬』 「はぁ、まぁまぁま、NHKにはずいぶんお世話になっていますけどもね(笑) 」
『田』 「あぐり」ですよね。萬斎さんといえば。
『萬』 「この写真となると、いかに年とったかっていうのがわかる。(苦笑)」
(赤いマフラーをしたエイスケさんの笑顔の写真と今の自分を比べて)
『大』 1997年放送で、連続テレビ小説「あぐり」でヒロインあぐりの夫で小説家のエイスケを演じられました。(映像)
『田』 個性的な人物ですよね。
『萬』 「そうですね。ダダイストの作家って。ダダイズムってことを今ここで説明するのはちょっとややこしい話で、まぁかなり前衛というか、富んだ。。こうわざと掴みどころをなくすようなね、ひとつの作風であるんですけどね。」
『大』 このエイスケ役とご自身に共通するところもあるのですか?
『萬』 「はい。両方とも変わってんじゃないですか(爆笑) ま、でもやってて非常に楽しめたし、まぁ、変わった人間像であるので、やっぱりその最初に話したように人を驚かすとか、思いもかけない所から登場して、思いもかけない格好をしているっていう役どころだったので楽しみましたね。この赤いマフラーもそういう意味でちょっと奇抜なところでありました。」
『大』 次はこちらです「舞台」。転機となった作品は?
『萬』 「まぁ、そうですね。僕としては「オイディプス王」というギリシャ悲劇ですね。まぁl、蜷川幸雄さんの演出ではありましたけれども。2004年アテネオリンピックの時にはこの作品でアテネの野外劇場で実際演じましたけどもね。」
『田』 海外での反応というのはいかがでしたか?
『萬』 「まぁその。ギリシャ古代劇場ってのは数千人入るすり鉢状なんですね。まぁ、6千人くらいの人が雲霞のごとくに見下ろしてくる中で演じてたんですけども。まぁそのね。世界の蜷川さんと仕事をして海外公演をする際にどういう心遣いというか、どういうアイデアをもち、どういう気概でっていう、その世界で戦う様っていうのを共有出来たっていう意味ではとても印象的ですよね。」
『大』 さ、そして次はこちらはみなさんおなじみですよね「にほんごであそぼ」(ややこしや映像)
随分、長くやってらっしゃいますよね。Eテレビで放送してますが。
『萬』 「そうですね。そろそろ10年になりますね。」
『田』 そもそもきっかけは何だったんですか?
『萬』 「そうですね。あの「にほんごであそぼ」っていうか、日本語をメインにした子ども番組を作ると。まぁそんな中で言葉で遊んだり、それから体を使って表現したりすることは出来まんか?と相談受けたんですけど。まぁ、とにかく狂言っていうものは今はユネスコの世界文化遺産なんですね。ですから狂言は狂言だけのためではなくて、みんなのものですから。ま、イギリスなんかでもワークショップっていう概念をずいぶん、勉強してきたので、狂言って手法を使って日本語の楽しさをみなさんに知ってもらい、そして古典の世界を知ってもらいって、そういう意味でね、僕は話聞いただけで、すぐ乗りましたね。」
『田』 「にほんごであそぼ」というと「ややこしや」のフレーズが有名ですけども。ちょっとここでやっていただけたりしませんか?
『萬』 「ええ。はい。やりましょうか。でも、これほんとはペアでやるもんなんですよ。お相手いただけますか。」
(田中さなえアナを誘って立つ)
『萬』 「え~っと、ですね。両手使います。基本的には私のマネをしてください。鏡ではないですけどね。
『わたしは』こっちの手でお願いします。『わたしは』出ながら『そなたで』手を変えて、『そなたが』 『わたし』」
『大』 さなえさん嬉しそうですね。
『萬』 「『そも わたしとは』『なんじゃいな』で、肩を組んで。左から首をこっちに傾げて、左に滑って『ややこしや~』『ややこしや~』『ややこしや~』『ややこしや~』」
『田』 すごー~い。ちょっと感動ですね。ありがとうございます。
(すわる)
『萬』 「首を。。首を曲げてから動く。っていうのが。」
『田』 曲げの角度も大事ですよね。
『大』 この番組で得たものも大きかったんですよね。
『萬』 「そうですね。まぁ、ワタクシ自身も狂言以外の日本語のいろんなフレーズに出会うこともできましたし、まぁ、そうですね。お子さんに対してどういう印象を与えるか、っていうことも含めていろいろ考えましたね。この「ややこし隊」と言われるこの人たち、狂言では実際に鬼なんですね。まぁ、実はちょっと怖いという幼児番組でミソなとこなんですね。よくブログで『子どもが泣いて困る』っていうのがありますけど、まぁ、それは「なまはげ」とかとおんなじで、やっぱりちょっと怖いものもいるっていうのがひとつのポイントだと思いますけど。」
続きはパート3で♪