バラ係
口癖なのだと思う。 気がつくと、係、係と云っている。計算係、ゼリー係、繕(つくろ)い係、宿題係、バラ係というふうに。 たとえば計算係。 3人以上で会食し、会計するときに、それぞれの分を計算する係だ。こういう場面で役に立たないわたし(計算が、おそろしくおそい)は、か細い声で「計算係さん、計算係さん」と云って救いを待つ。 たとえばゼリー係。 うちの冷蔵庫に常備しているゼリーをつくる受け持ちのことだ。1単位1000mlのジュースで(以前は500mlだったのだが、それだとすぐになくなるので、昨年から1000mlとした)、ゼラチンゼリーと寒天ゼリーを交互につくっている。長年、わたしがしてきたゼリーづくりを、近年誰もができるようになった。「きょう、ゼリー係するね」という具合。 たとえば繕い係。 くつしたをはじめ衣類の綻(ほころ)びを繕う受け持ち。これは、いまのところわたしのしごとだが、ちっとも手がつかず、溜めに溜めてしまったようなとき、みずからに向かって「ほら、繕い係、しっかり!」と叱咤激励するのである。このしごとははじめればたちまち片づいて、思いがけないほどの達成感があるのを知っているのに、手がつかないことがあるのはなぜだろう。気持ちのもち方だろうか。ゆとりをつくる状態に気持ちをもってゆけないと、手がつかない。 たとえば宿題係。 これはおもに中学生の三女に向かって云う。「山のように宿題が出た」と頭をかかえる娘に、「あなたは宿題係だからさ。さくさくやっちゃいなさいな」と声をかける。「……人ごとだと思って」「いやいや、係だからさ。ね」 さて、バラ係。 じつはバラ係のはなしをしようとして、寄り道をしていたのである。「バラが咲いたよ。切ろうか? 白とピンクとどっちがいい?」 と、バラ係が云う。「ピンク?」 うちには「サマー・スノー」という種類の、その名のとおり白い花を咲かせるつるバラがあるばかりだというのに。ピンク色とは、どういうことだろうか。「ことし、ところどころピンクの花がついたんだよ。不思議だよね」 とバラ係。「誰かがピンクに塗ったのかしら。ほら、『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作)に、赤いバラの木を植えなくちゃいけないところに白いバラの木を植えてしまった園丁たちが、女王に首をちょん切られまいと必死で白い花を赤く塗りかえる場面があるでしょう」「でも、うちの女王陛下は、白い花好みだよ。ピンク色に塗ったりしたら、逆に首をはねられるよ」 紹介しそびれていたが、こんな人聞きのわるいことを云うバラ係の正体は、夫だ。もう15年ほども前のことになるだろうか。まだ神奈川県川崎市に「向ヶ丘遊園」(※)があったころ、夫とふたりで遊園内の「ばら苑」で、つるバラの苗をもとめた。夫は園芸にとくに興味があるわけでなかったが、以来バラ係をつとめている。 わたしは、花が咲く季節のほかはバラをほとんど忘れて過ごしているが、バラ係は通年、水やりをしたり、肥料を施したり、つるの這わせ方を工夫したりしている。ときどき、ぼんやりと「アブラムシ……」とつぶやくのを聞くにつけても、かのムシたちとは、おわらない闘いをつづけているというわけだろう。 バラ係が、切ってくれた花を居間のピアノの上に飾る。 白いのと、ピンク色のと。 不思議だ。突然変異というのだろうか。かつてのわたしだったら、白と思って持ったものが、とつぜんピンク色混じりになったりするのを、好まなかっただろう。『不思議の国のアリス』に登場する恐ろしい女王のように「首をちょん切るぞ!」とは云わないまでも。 ところが。いまは、とつぜんピンク色の花を咲かせて見せるバラに、底力のようなものを感じている。これもひとつのうつろいなのだと、思える。 うつろいながらもバラがバラとして生きてゆくこと、ひとがひととして生きてゆくことが愛おしい。バラにもひとにも、そのいのちにはそれぞれ寿命があるけれど、バラのいのちはまた別のバラにひき継がれ、ひとのいのちもまたひき継がれてゆく。「サマー・ピンクもわるくないね」 バラ係が云う。※ 向ケ丘遊園1927年から2002年まで営業していた遊園地(小田急電鉄経営)。「花と緑の遊園地」として手入れされた園内は、いつ行っても緑と花にあふれていた。(筆者は、最終日、三女とふたりで出かけてゆき、向ケ丘遊園に感謝の気持ちを伝えた/2002年3月)。向ヶ丘遊園内にあった「ばら苑」は、神奈川県川崎市が生田(いくた)緑地と合わせ管理を継承、ボランティアが手入れを行い、現在も春と秋、一般に向け公開している。バラ係撮影のバラ。※お知らせ「エッセイを書いてみよう」朝日カルチャーセンター・新宿(東京都新宿区)において、7月から月2回、定期の講座をもつことになりました。日時:2012年7/11、8/8、8/22、9/12、9/26 (水曜日10:30−12:00)受講料:会員15,225円(入会金5,250円)、一般18,375円。あたらしい旅のはじまりだなあ、という気がしてわくわくしています。ご興味のある方は、朝日カルチャーセンター(でんわ03−3344−1941)にお問い合わせください。