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テーマ:今日の一言(1612)
カテゴリ:その他
1945年(昭和20年)7月6日、甲府空襲のとき私は甲府市愛宕町に住んでいた。最近、夜中に目覚めたら愛宕町の番地を突然、思い出したので、それをネットのマップに入れてみたら、一軒の家を指し示した。68年を経ても住所はまったく変わっていなかった。
記録によれば、甲府の空襲は夜半の日付けが替わる頃から始まったという。7歳の私は母に叩き起こされたに違いない。しかし逃げるときの恐怖心など感情的なことは何も覚えていない。覚えていないから感情が無かったかというと、それはそうと思えない。不思議に記憶がメモ的なのである。 私には昭和19年生まれの妹(まだ赤ん坊)がいた。物資不足のため栄養状態がとても悪かったから、靴下のゴムが彼女の皮膚に食い込み、そこから化膿して治らないような状況だった。太宰治の長女も甲府空襲のさい、重症の結膜炎のため目が見えなかったとあるが(「薄明」参照)、医療が不十分なだけではなかったのかもしれない。 妹は母が背負ったと思う。父の記憶は無い。たぶんいなかったのだろう。山梨工業専門学校(現山梨大学工学部)の先生だったけど、陸軍の技術将校でもあったから。そして最初に逃げ込んだのが防空壕。場所は判らないが、詰めて入れてもらったのだろうか。覆いの無い横穴の最前列に陣取って、飛来するB29(赤い標識灯を点けていた?)から落される焼夷弾の束、それが途中でバラバラになって落下する様をつぶさに見た。(対日戦で多く使われた焼夷弾は、6ポンド(約 2.7 kg)のナパーム弾で、外形は六角柱、集束焼夷弾として投下されたという) 突然、地面を揺るがす焼夷弾の落下音。周辺に焼夷弾がばらまかれたのだ。防空壕の奥にも落ちた(あるいは天井が抜けた)。奥の人たちの被害が分からないものの、急かされてわれわれは山に向かって逃げ出した。真っ暗い道には、飛び散った油があちこちで燃えていた。後に大人が言うには、防空壕は未完成だったという。 空襲は2時間ほどで終ったらしい。静かになった空とは裏腹に、真っ赤に燃え盛る甲府中心市街をただ見下ろしていた。いつか遊びに行ったN君の家も燃えているのかな?そしてN君は上手く逃げたかな?実はこの疑問は今でも続いている。と言うことは、2学期の小学校で再会出来なかったのかもしれない。 空襲のあと日が経つにつれ被害の状況が伝わってきた。太宰治のように焼夷弾の火を消した人もいたが、最も強く記憶したのは、焼夷弾の直撃で亡くなった人と目前に落下したけど無傷だった人の違い。そしてお隣のおばさん(年令不明)が焼夷弾の油をかぶって火傷で亡くなったこと。おばさんは私を可愛がっていたということで、ご遺体に別れを告げに行った。焼けただれた顔を凝視しながら、どうして油をかぶったのかな、と思った。 愛宕町の家は貸家だった。ここにも一発の焼夷弾が落ちた。運が良かったことに、焼夷弾は屋根と私の勉強机を貫き、畳で止まったものの、発火しなかった。しかし、親の言い分では「悪質な」大家により、この家から追い出されてしまった。 貸家から追い出されたのと終戦とは、どちらが先だったか確かには覚えていない。大人と一緒に「玉音放送」を聞いたのが愛宕神社だったようだから、たぶん終戦が先だろう。 そして新しい生活は、武田信玄公菩提寺の法泉寺本堂(と記憶する)で始まった。本堂での居住場所は定かでないが、他に避難者がいたわけではないから、甲府一中(現甲府第一高校)の先生だったT住職のご好意によるのだろう。ただトイレがなく、提灯の灯りで父と共に、墓地に設けられた便所まで行った。苔むした墓石の上に、空襲で亡くなった人々の火の玉が飛びそうでとても怖かった。代わって蛍がたくさん飛んでいた。このとき父に「北斗七星」を教わった。また本堂にはムカデやヤスデがたくさん出没した。 通っていた山梨師範附属小学校の校舎は燃えてしまった。父の山梨工専の建物もしかり。両者は師範学校を挟んで近かったから、工専に遊びに行って、玄関前のツツジの蜜を吸ったことがある。そのツツジも燃えてしまった。 2学期の授業は焼け残った師範学校の建物を使って行われた。午前と午後の2部制だった。お寺から毎日通った。冬を越し2学期を終えた翌年の春(昭和21年)には、茨城県多賀町(現日立市)にあった多賀工業専門学校(現茨城大学工学部)に移ることになった。 父が茨城に移る決意をしたのは、多賀町が空襲を受けておらず、工専には研究ができる部屋があったからかもしれない。住居と言えば立派な戸建の官舎だった。 しかし、ここにも戦争の悲惨さが生々しく残っていた。前年の7月17日には米軍による艦砲射撃を受け、校長は直撃弾で殉職、寮生13名・職員1名も死亡していた。私が行ったとき、校長の官舎跡にはポッカリ大穴が空いていた。 甲府と言えば、ずっと南アルプス登山や観光旅行の通過地だった。ところが6年前に山梨大学工学部を訪れる機会を得て、「逃げ惑った」愛宕町の狭い坂道を探す決心をした。見当をつけて尋ねても空襲を知る人には出会わなかったが、遂に坂道だけでなく、60余年前に住んだ「旧居」まで発見した。そのインパクトは旧知に出逢った喜びとは異なり、何か心の奥底に埋れていたものが掘り起こされた感じだった。そして私の生き方の迷いの原点がここにあったことを知った。愛宕町198番地。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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