テーマ:国内旅行について(2618)
カテゴリ:国内旅行
■11月15日(月)後半 ■前半■ 江川家を見た後、源頼朝(みなもとよりとも)配流(はいる)の地、 蛭ヶ小島に移動。 翌年(永暦元年)2月9日、平宗清(平頼盛の家人)に捕えられて清盛のいる六波羅へ連行されたが、清盛の継母池禅尼の命乞いもあって、 3月11日、伊豆国流罪となった。 『平家物語』によると流された地は蛭ヶ小島(ひるがこじま)。 洪水等で変遷した狩野川の中洲の説や、湿田のなかに島状にある微高地であると考えられる。 また、中洲の中でも小さい島であったことより、蛭ヶ小島と呼ばれるようになったとも考えられている。 のちに挙兵するまでの20年近くをこの地で過ごしたとされている。 その間には北条政子と結婚している。 ただ、実際がどうだったのかは不明で、近年では流されたのは伊東という説もある。 (☚■伊東にて■) 頼朝は祐親の監視下に置かれて伊東に住んでいたのだという。 伊豆国流罪となった頼朝は、祐親が大番役で上洛している間に、 (☚■伊東にて■ 祐親の三女・八重姫と結ばれ、やがて男児が誕生して千鶴丸と名付けられた。 しかし、大番役から戻った祐親は激怒し、千鶴丸を殺害。 この話は、■コメントでも教えてもらった。■ 蛭ヶ小島のガイドさんも、頼朝がモテていた話をしてくれた(o^―^o) 史跡は旧韮山町が「蛭ヶ島公園」として整備し、公園内には「蛭島碑記」の石碑のほか、富士山に向かって立つ頼朝と政子の像がある。 ■水に落ちた犬は討て■というけれど、 まさか、助けた頼朝に討たれるとは・・・あの時、助けなければよかった・・・と平家は思っただろう。 来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が楽しみだ!! 願成就院(がんじょうじゅいん)に移動。 ■願成就院(がんじょうじゅいん)■は、静岡県伊豆の国市にある、高野山真言宗の寺院。 山号は天守君山。境内は国の史跡に指定されている。 仏師運慶の数少ない真作の一つである阿弥陀如来坐像などの仏像を安置する。 ■松本清張の「小説日本芸譚」■によると、 それが鎌倉幕府の援助の下に運慶が一門を率いて活動し、遂には主流となって三条派を衰微させ、この京の七条に仏所を構えてからは、完全に相手を蹴落としたのであった。 三条派を衰退させたきっかけが、この寺だったのだろうか? 『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)に北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したという。 ただし、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられている。 全盛期には巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそびえ立つ、藤原時代様式の壮大な伽藍を誇る伊豆屈指の大寺院として栄華を誇った。 (▲朝、ホテルの窓から見た富士。) ♪富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ 富士のサイサイ 白雪ゃ朝日でとける とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島に届く 源兵衛川は、市街地を通り中郷温水池(ため池)まで流れている全長約1.5kmの農業用水路。 三島駅前の市立公園「楽寿園」に湧き出す富士山の伏流水が源流です。 川のなかには飛び石状の散策路が配されていて、水のせせらぎに寄り添って散策することが出来るのです。 喧騒を離れたこの水辺で、透明な水の美しさ、さやさやと流れるせせらぎの音を間近に感じながらの散策は、しばし、日常を忘れさせ、いつしか「源兵衛川ワールド」へと引き込まれていくのです。 <川の上を流れるレストラン>を謳う「dilettante cafe(ディレッタント カフェ)」。 源兵衛川を望みながら食事が出来る唯一と言っていいレストランです。 源兵衛川は、1960年代から、都市化・工業化の進展や生活環境の変化に伴う湧水の減少が進み、渇水期には家庭雑排水の垂れ流しやゴミの放置により水辺環境が悪化し、汚れた川のシンボルになってしまいました。 そこで、ふるさとの原風景・原体験を取り戻そうと多くの市民が立ち上がり、協力し合いながら源兵衛川の水辺環境の再生に努力しました。 その結果、ゲンジボタル、カワセミ等が自生するようになり、都市中心部を流れる河川としては、他に類をみないほどの豊かな生態系をもつ水辺自然空間が再生・復活しました。 まさに、富士の白雪が水の都・三島を作ったと言える。 富士日和 ●9580歩 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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