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2022.04.16
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テーマ:読書(8614)
カテゴリ:京都
 京都水運の父といわれる、角倉了以親子を描いた「曳舟の道」という本を読んだので京都の高瀬川のことが良くわかった。
●(高瀬川を造る時)三条大橋際で、思わぬ難題に直面した。
(略)それは、「秀次悪逆塚」と印された石塔が、鴨川河畔の地面に半分埋まった状態で、発見されたこと。

かつては鴨川の中州であったとこらしい。
28歳の秀次は、高野山で首をはねられ、京にその首が持ち帰られると同時に、妻妾、幼児一族39人と家臣の10人、計49人の遺骸の場所だった。
高瀬川に災いが及ばぬように、京都所司代の許可をとって、菩提を弔う寺を建てた。

樵木(こりき)町三条上ルで(高瀬川が)少し湾曲しているのは、そのため(遺骸のあった場所を避けるため)です。
素掘りをし、川床を搗き固め、粘土層の底辺を均し、玉石を敷き砂利と砂を転圧する。
(高瀬川の)壁は粘土質土壌に裏込め砂利を詰め、そして自然石で石垣造りで名を成している近江国坂本村穴太(あのう)の石工の力を借りて、積み重ね造成。

高瀬川の川幅は曳き道を含め4.5間あり(1間は1.81メートル)=8.145メートル、曳き道の脇には等しい長さで柳を植えて舟航路の境界とし、風情を醸し出した。

●橋桁は、各種の材料を運送する際、あたらぬように、また舟を曳き上げる舟子(ふなこ)達が潜れるように、おおよそ七尺余り高く造られました。
この運河には、おおよそ七万五千両(約60億円相当)。
これらに掛かる費用は全て、角倉家の負担。

 ●船賃は、一艘一回二貫五百文で一貫文は幕府へ、
二百五十文は舟の加工賃に貯え、
残り、一貫二百五十文は、角倉に入った。

その中から、舟子、舟番所、見廻り人など全て携わった人々の入用を差し引いても利益は莫大なものとなった。
恐らくは経費を引いても、一艘につき、五百文から六百文の利益になった。

●伏見稲荷大社の初午詣での時は、三条、四条辺りから毛氈を敷いた舟に客を乗せ、臨時収益を得ました。

(▲一の舟入のあたり)
●四条から上流には一丁間隔で九か所もの舟入場を造り、また舟廻り敷を二か所設置し、荷揚げ荷下ろしが円滑になるよう、大きな溜まり場を整えた。
●上りの舟は昼前には、荷を引き渡すことが出来た。

●舟は15艘くらいを一団とし、一まとめの船団を先頭の5人一組が先曳きし、後ろの繋がった舟には、一人づつ人がついてさかのぼっていきます。

●下りの舟は上りの半分ほどの荷を積んで夕方一回、東九条や伏見竹田、三栖まで船頭が舟に乗って櫓を漕いで行った。

●舟は水量の多いときは十五石ほどの荷を積んだ。
通常の雨なら休まなかった。
水の少ないときは、舟番所の指示で積荷の加減をした。
曳子の装束は紺色の袢纏(はんてん)、股引(ももひき)、足半(あしなか)の草鞋(わらじ)。
 ■「曳舟の道」■
志を立て、私財を投じ、京都・保津川を開き、高瀬川をつくった男、角倉了以(すみのくらりょうい)と父了以の高名に隠れているが、近世の経済や文化の発展に多大な役割を果たしたその息子、素庵(そあん)の物語。
了以・素庵による朱印船貿易、高瀬川・保津川・富士川の開削ー、近世角倉一族は大商人・事業家として広く知られている。

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Last updated  2022.04.17 10:35:14
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