テーマ:国内旅行について(2618)
カテゴリ:国内旅行
■6/10(金) 青森市にある■棟方志功記念館■に行った。 少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、 「ゴッホになる」と芸術家を目指した(友人たちとの会話の中で「大きくなったらお前は何になりたいか」の問いに 「私だったら絵描きになりたい」という趣旨であった、ゴッホとは個人ではなく絵描きという職業のことだと思っていた、という説がある) 棟方志功は、版木を彫りながら、ベートーベンの「喜びの歌」や民謡の鼻歌を歌いながら掘っていた。 見た瞬間に掘るというやり方や速さは天才的で、鼻歌を歌う呑気なおじさんと大違い。 ■八甲田山雪中行軍遭難資料館■に行った。 八甲田雪中行軍遭難事件は、 1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。 訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。 ▲「八甲田山雪中行軍遭難資料館」の敷地にある遭難した兵士の墓。 ●行軍の目的。 冬のロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が不通となった場合、物資の運搬を人力ソリで代替可能か調査することが主な目的であった。 ●1月23日午前6時55分に歩兵第5連隊は青森連隊駐屯地を出発。 田茂木野において地元村民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くならと案内役を申し出るが、これを断り地図と方位磁針のみで厳寒期の八甲田山踏破を行うこととなった。 ●「天は我らを見捨てたらしい」 小原伍長の証言によれば、「天は我らを見捨てたらしい」というような言葉を神成が吐いたとされる。 このため、それまで何とか落伍せずに頑張っていた多くの将兵が、この一言により箍(たが)が外れ、 矛盾脱衣を始める者、 「この崖を降りれば青森だ!」と叫び川に飛び込む者、 「いかだを作って川下りをして帰るぞ」と叫び、樹に向かって銃剣で切りつける者など発狂者が出てくるほか、 凍傷で手が利かず、軍袴のボタンを外せぬまま放尿し、そこからの凍結が原因で凍死する者など死亡者が続出した。 ●現地に来て分かったこと ★アイヌの活躍。 勇敢で雪山の知識もあるアイヌが6人、捜索隊に加わった。 2月11日~4月19日まで捜索。 その結果、67日間の捜索活動で遺体11体と多数の遺品を発見した。 4月になり、アイヌの労働の季節になったので、弘前の軍隊の見学と市内の見物の後、北海道に帰った。 ★雪中行軍絵柄掛け布団。☝ 明治天皇は、遭難事件を悼(いた)まれて、掛け布団に雪中行軍の様子を御自ら考案されて織り込まれたものを 毎年冬になるとご愛用されていたそうです。 「八甲田山雪中行軍遭難資料館」から少し離れた所に、奇跡的に助かった、後藤伍長の発見場所があり、銅像がたっているというので見に行った。 新緑の山道の脇には、白樺に似た美しい林があった。 坂道の途中に「ケッパレ」の文字。 「がんばれ」の東北弁。 後藤伍長、発見いたしました!! この場所で、立ったまま、気を失っていたという。 この後、八甲田山のロープウエイに乗って山頂に行く。 八甲田山は、東北地方の脊梁奥羽山脈の北端に位置する。 ロープウエイに乗って山頂に行くと・・・ ▲6月というのに、残雪がすごい!!▼ 6月でもこうだから、真冬の八甲田、考えただけでも恐ろしい!! ■青森市・三内丸山遺跡■ ●6706歩 八甲田泊 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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