テーマ:国内旅行(1457)
カテゴリ:国内旅行
■2023.5.26-3 ■愚陀仏庵(ぐだぶつあん)■ (夏目漱石なつめそうせきの寓居ぐうきょ)跡 明治28年(1895)、松山中学校英語科教師として、月給80円で赴任し た漱石は、6月下旬、城山山裾の愛松亭から松山市二番町上野義方邸内の二階 建の離れに移った。 一階も二階も四畳半と六畳であった。 日清戦争に記者として従軍の帰路喀血した子規は、神戸で療養のあと松山に帰り、8月27日、漱石の下宿へ移り、階下の二間を居室と定め、漱石は二階に移った。 10月17日までの25日間、子規はここに起居して、「俳諧大要」を書き、当地の「日本」派俳句結社「松風会」会員約三〇名を日夜指導した。 また、漱石も自らを「愚陀佛」と称し、この宿を「愚陀佛庵」として俳句に 熱中した。 愚陀佛は主人の名なり冬籠 (夏目)漱石 (漱石寓居の一間を借りて) 桔梗活けてしばらく仮の書斎哉 (正岡)子規 昭和57年萬翠荘敷地内(松山市一番町三丁目)にも復元された。(ただし、平成22年に災害のため倒壊、今はない。) 別るるや一鳥(いちょう)啼いて雲に入る 漱石 石が愛媛県尋常中学校から熊本の第五高等学校の教授として赴任するため4月11日に松山を離れる前に、松風会会員近藤我観に送った別離の句の1つ。 三津の港から、虚子と広島行の船に乗船し、松山を離れた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 「三津の渡し」は約80メートルの距離を結ぶ、定員12名の小さな渡し船で、地元人の足として利用されています。 愛媛県松山市の中心部から北西に位置する三津浜は、 夏目漱石の小説『坊っちゃん』で坊っちゃんが松山に赴任した際、最初に降り立った場所。 古い町家の残る港町に、約500年ほど前から運行されている歴史のある渡し船「三津の渡し」があります。 「熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮(しほ)も適ひぬ今は漕(こ)ぎ出でな」 額田王(ぬかたのおおきみ)が「白村江(はくすきのえ)の戦い」に向けて詠んだ有名なうたがある。 白村江の戦いは、当時、友好関係にあった朝鮮の国・百済(くだら)が滅ぼされたときに、 斉明天皇と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)が百済再興を手伝うために朝鮮に出兵した事件です。 「熟田津(現在の愛媛県松山市)で月を待ち、出航の準備をしていたところ、潮の流れが良くなったから今こそ漕ぎ出そう」 という意味で、戦意高揚や安全祈願のために詠んだ歌と考えられています。 寛文4年(1664年)洲崎の魚市売買に御沙汰があったことにより商人などでにぎわい、 また小林一茶も古深里洗心庵の句会のとき渡っている。(1795) ●14132歩 ■四国へ■2023.514~5月28 ■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■ ■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■ ■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■ ■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■ ■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■ ■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■ ■5月17-3■高知県:モネの庭■ ■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■ ■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■ ■5月19-1■高知県:高知城■ ■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■ ■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■ ■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■ ■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■ ■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■ ■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■ ■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■ ■5月24-1■愛媛県:宇和島城/天赦園■ ■5月24-2■宇和島の町/宇和島橋/西予市町歩き■ ■5月25-1■木蝋で栄えた重伝建の町・内子、内子座■ ■5月25-2■大洲市:晩翠荘/臥龍山荘■ ■5月25-3■大洲城/「お道を」/伊予市・下灘駅■ ■5月26-1■松山城/子規堂■ ■5月26-2■松山市の華麗なる萬翠荘(ばんすい)/愛媛県庁/三津の渡し■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2023.09.05 20:27:33
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