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2023.10.09
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テーマ:読書備忘録(1394)
カテゴリ:雑記

★夫の母が6月23日に100歳で亡くなって3か月が過ぎた。
長男の夫が喪主をつとめ、通夜、葬式、四十九日の法要など、初めてのことばかりだった。
一番戸惑ったのは、僧侶に対する謝礼。
ピンからキリまで何が正解か分からない。
★葬式は要らないという人もいるが、私は、必要ではないかと思っている。
葬儀は「古今東西」あるからというのが私の理由。
洋の東西を問わず、昔からあって今もあるものは、必要だからではないだろうかと思う。
ただ、私は宗教を信じないので戒名は要らない。
私の思っている葬式は、葬式というよりお別れ会というのがふさわしい。

そんなことを考えていたら、司馬遼太郎の「街道をゆく 24」に次のようなことが書いてあった。
 *******
仏教は、本来、葬儀をするための宗教ではなかったのである。
クシナーラの野で弟子たちに見とられつつ死んだ釈迦についても、葬儀が営まれたというはなしはない。
かれの遺体は、当時のインドの火葬のやりかたどおり、新しい布や綿でつつまれ、油をたっぷり入れた鉄の桶に
おさめられて、火が点じられただけであった。
仏教渡来以前、日本人は、死者と死霊をおそれた。(略)
 仏教という大きな文明がこの国にやってきて、死者とは五蘊(ごうん)に去った物質にすぎない、と教えても、死者をおそれる固有の心をくだくことはできなかった。
むしろ、仏教はこれに習合した。
具体的には、死霊を鎮めるために用いられるようになった。
仏僧が死者をあつかうようになるのは、そのことによる。
 が、東大寺が建立された奈良時代では、仏教は生者のみのものだった。
このため、東大寺ではなお創建の精神が息づいていて、葬儀というものをやらない。
また官長以下、塔頭(たっちゅう)の僧たちが死んでも、東大寺の僧がその導師をつとめることもない。
東大寺の僧が死ぬと、町方の寺の住職をよんで、葬儀をさせるのである。
その専門というべき寺があって、寺号は空海寺という。
「街道をゆく24」 司馬遼太郎
**************************
 戒名については、以下のことが載っていた。
*************
死者に戒名をつけるなどという奇習がはじまったのはほんの近世になってからである。
インド仏教にも中国仏教にもそんな形式も思想もない。
江戸期になって一般化したが、おそらく寺院経営のためのもので、仏教とは無縁のものといっていい。
戒名がさほどの歴史性もなく、仏教の教義にも関係がないというのは、わが国最古の過去帳をもつ修二会がそれを証明している。
「街道をゆく24」 司馬遼太郎
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戒名のなき父の墓 土筆生う  はるな
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Last updated  2023.10.09 01:20:32
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