テーマ:国内旅行について(2617)
カテゴリ:国内旅行
■2023.11.16 広島県の古い建物が残る竹原の町から大崎下島の御手洗(みたらい)地区に行くことに。 四国からだと橋で繋がっているが、竹原からこの島に行くには、フェリーを2回乗り継いで行かなけれならない。 そのため、 6:10起床。6:30荷物のパッキングと、車への積み込み。 6:40~朝食。 7:18ホテルを出発。と忙しい。 7:45竹原港発のフェリー(山陽商船)~8:10白水港(大崎上島)着。 島内移動で、明石港へ。 明石港からのフェリーは、小さくて、積み荷の車は、わずか6台で、それで(満車)状態だった。 9:20明石港発のフェリー(土生商船)~9:35小長港(大崎下島)着。 御手洗(みたらい)休憩所に着き、ここで、ガイドさん(男性)と合流し案内してもらう。 御手洗(みたらい)は、安芸灘とびしま海道が通る大崎下島の東部にある港町。 瀬戸内海に連なる芸予諸島の一つ、大崎下島の東端に位置する港町である。 北西方向に大長地区がある。 東側が愛媛県今治市の岡村島になり、安芸灘オレンジラインによって結ばれている。 江戸時代より風待ち・潮待ちの良港として知られ、 北前船(きたまえぶね)の寄港地の一つとして栄えました。 御手洗には大小の商家・茶屋・船宿・神社・寺院などが混在した、 江戸時代から明治・大正・昭和初期にかけて建てられた古い町並みが今も残っていて、 1994年(平成6年)に国の『重要伝統的建造物群保存地区』に指定されています。 奥へ歩いていくと御手洗随一のパワースポット『御手洗天満宮』があります。 元々ここには、学問の神様として知られる菅原道真が 太宰府へ左遷されたときに立ち寄ったとされる『菅公の井戸』があり、 明治初期にその井戸の側に天満宮が建立されました。 ▲神社の一角に「中村春吉」の碑。 彼は自転車による世界一周冒険旅行をしたという。 精神的医術を生業にしていていつも 「ター、ター」と言って治療していたので「ターターおっさん」とよばれていたとガイドさん。 乙女座は、1937 (昭和12) 年に当時の御手洗町長が私財を投じて建てたモダンな劇場で、 映画・芝居・大道芸の興業や、青年会の社交場に利用されていました。 線を繰り返すアールデコの紋様が美しい。 ▲『若胡子屋跡(わかえびすやあと)』。 若胡子屋は、かつて約100人の芸子・遊女を抱える御手洗最大の茶屋(遊郭)でした。 若胡子の他にも茶屋があったが、それでも茶屋に上がれる男は限られている。 ■『おちょろ(オチョロ)船』は■上陸できない下級船員のために、遊女たちを停泊中の船まで運んだ小船。 港に停泊する船に遊女を運んだ海上遊郭。 “おじょろう(女郎=遊女。おいらん。娼妓)”がなまって「おちょろ」とか、湾内をチョロチョロ行き交うので「おちょろ」と呼ばれたとか言われている。 坂本龍馬が来た屋敷もある。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 蒲刈大橋を渡って、下蒲刈(しもかまかり)島へ。 ガイドさんの案内で廻る。 この島は、江戸時代には朝鮮通信使の交通路であり宿泊地のひとつでもあった。 朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本へ派遣された外交使節団。 通信使を見物する際には、幕府から作法についてお触が出ていた。 ▲作法のなかには、喧嘩や騒ぎを起こさない、 2階や橋の上から見ない、 指をさしたり笑ったりしないこと、などがある。▼ ★福島雁木(がんぎ)…江戸時代初期、福島正則が広島藩主であった頃に考案し造らせたとされる船着場。 潮の干満に関係なく荷積みができるように階段状になっている。 今では造られた当初の半分程の長さになっているが、当時の様子が偲ばれる趣のある港。 因みに雁木というのは雁(かり)が空を飛ぶ様子から来ているもので、斜めのギザキザ模様のこと。 港の場合は石段のギザギザをそう呼ぶ。 大崎下島も下蒲刈(しもかまかり)島も小さな島なのに、沢山の歴史が詰まっている。 瀬戸内海が当時、どれほど重要な海のルートだったかが分かる。 呉に向かう。 ●7368歩 ●11月13日(月)~14日(火) ■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■ ●11月15日-1(水) ■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■ ●11月15日-2(水) ■愛知県:大三島・大山祇(おおやまづみ)神社■ ●11月15日-3(水) ■広島県:重伝建・竹原の町なみ■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.12.02 00:14:04
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