薩摩藩 百五十斤(ポンド)鉄製砲復元
薩摩藩 百五十斤(ポンド)鉄製砲 復元150ポンド砲百五十斤砲薩摩藩 百五十斤(ポンド)鉄製砲 復元以下 現地案内板より 幕末、薩摩藩主島津斉彬が反射炉で鋳造しようとした鉄製150ポンド砲の模型です。 1840年代、薩摩藩は、日本の他地域よりも早く、通商を求める西欧列強の外圧にさらされました。その軍事力、特に大砲を多数装備し、海上を自由に動き回る蒸気軍艦の存在に脅威を抱いた薩摩藩は、海岸要衝に砲台(台場)を建設し、大型の台場砲を配備するようになりました。当初、台場砲は、日本の在来技術で鋳造可能な青銅で造られていましたが、嘉永4年(1851年)薩摩藩主に就任した斉彬は、西欧指揮の溶鉱炉・反射炉を導入して鉄製砲を鋳造するようになりました。 斉彬の側近、市来四郎は安政4年(1857年)、鉄製150ポンド砲の鋳造に成功したと書き残しています。150ポンド砲は当時の最大砲で、重量150ポンド(約70きろ)の弾丸を焼く3,000メートル飛ばすことができました。翌安政5年に鹿児島を訪れたオランダ海軍将校カッティンディーケは、「砲台でみた150ポンドのパイアン砲(青銅砲)はきれいに鋳上げられたいたが、工場(集成館)で見た鉄製砲はあまりよい出来ではなかった」と書き残しています。また、文久3年(1863年)の薩英戦争では2門の150ポンド砲が使用され威力を発揮しました。