カテゴリ:ジギング
始めて、ヘミングウェイの「老人と海に」出会ったのは、ハナタレの中学生の頃だった。 それは、スペンサートレーシー主演のモノクロの映画だったと思うが、カラカラと回る映写機の音と、周りの大人たちの吸うタバコの煙を気にしながら、田舎町の古臭い映画館での記憶だ。 やがて、その本を手にしたのは、大人になって上京し、花のバンドマン生活に胸を躍らせた頃。水道橋にあるダンスホールでの仕事に行く途中、何気に寄った本屋だった。 昔風の古臭い書影の本が並ぶ中で、一冊だけ真新しい表紙の本が、子供の頃に見た、あの映画の懐かしい「老人と海」である。思わず購入したのが日本語訳の初版本であることを後に知った。 まあ、子供の頃から本好きの私だが、大概は本を読んでから、映画化された映画を見る。 本によって、先にイメージが作られるのだから、映画を見た時、自分の中に作られたイメージとのギャップがあり、けっこう落胆することも多い。 しかし、この「老人と海」の場合は、まずは最初に映画で、あの若々しいヘミングウェイとアメリカのお金持ち社会。そして、主人公の老人、カリブの海など、様々な想像に思いを巡らせた。 そして、後に読んだ日本語訳の初版は福田恆存訳だ。記憶にある、"It was papa made me leave. I am a boy and I must obey him."の中で、papaの訳が「おとっつぁん」になっているところ。何かちょっとした違和感を感じた。 今であれば、“パパは一緒に行けないと言った。僕は男の子だから、言う事を聞かなくちゃいけないんだよ” こんな訳になるだろうか?ところが 、“おとっつぁんだよ、いけないっていったのは。ぼくは子供だ。いうことをきかなくちゃならないんだ”。こんな感じに訳されている。 確かに今とは時代も違うのだが、その当時「パパ・ヘミングウェイ」を知る私には、「パパがおとっつぁんは無いだろう~~」、てな感じなのである。 他にも、海を知り、釣りをやっているからこその言い回しもあるだろうか?。残念ながら、翻訳者がそこまで、海に、釣りに、カリブの自然に精通していないのかも知れない。 それは、映画からイメージが先行した為に、逆に本の方に違和感を持ってしまったのだ。 それでも、本でなければ伝わらないものもある。例えば、主人公のサンチャゴ老人が3日3晩の苦闘から釣り上げたカジキマグロ。これはブラックマーリンだろうか?、最大で900キロにまでなる魚だ。 そんな巨魚とのストーリーを描けるのは、そんな死闘を経験を持つ人間でなければ成しえない。其処には、カリブの海を颯爽とフィッシングボートで駆け巡る、あのヘミングウェイの姿が想像できるのだ。 私の釣り人生は、全てに、このヘミングウェイの「老人と海」に始まっていると言って良い。元々、子供の時代から、川に遊び海に遊び、四六時中釣りをしていた記憶はあるが、釣りを自分のライフワークとして自覚したのは、やはり20代になってからだ。 それでも、20代、30代は、小生意気な若造で、釣った魚の大きさを自慢し、釣った魚は自慢げに持ち帰る、そんな釣りだった。 ただ、心にあるのは、やはりヘミングウェイであり、あのサンチャゴ老人の3日3晩の死闘だろうか。 恥ずかしながらで、全く比べるべくもない話だが、数年前に青森の竜飛で113.6キロと云うクロマグロを釣り上げた。それはすべてに幸運だったのだが、それは9時間15分の戦いであり これを述べるのは、あまりにもおこがま過ぎるが、さすがに、こんな長時間のファイトは初めてであり、釣り上げた後は、殆どが脱力状態だった。 それでも、9時間を超えるファイトは想像を超え、ファイト中にはリールシートが壊れ、バットエンドが割れ、それらをビニールテープで固定する。また手袋が破け、糸がほつれてリールに巻き込む。其処で手袋を外してのファイトになり、手がマメだらけ。そして、そのマメが破け、そこから血が噴き出す。ジンパルを使わないファイトなので、お腹は痣だらけで鬱血。フグリは擦れてズル剝け状態。いやはやいやはや。 ただ、そんなファイト中でも、友人やの船長との冗談話の会話があって、ファイト中の余裕が持てたろうか。「パパ~、老人介護だ~」と言って、オイラの口の中に水やおにぎりを放り込み食事させる。手すりの無い船での、波のある中でのファイトなので、後ろから体を抑えてくれる。 「パパ~、電気ショッカーがあるど~、使うか~。バカモン、死んでも使うか~」「パパ~、誰かと代るか~。クソ~、こんな楽しい事~、だれが代るもんか~」。こんな会話が、気を紛らわせてくれた。 それは、仲間がいて出来た事だ。決してサンチャゴ老人のように、1人で小舟を繰り出し、2日間も孤独な戦いをした訳ではない。 ただ、恥ずかしながら、チョットだけ経験をしたろうか。比べるべくもないが、「老人と海」、その老人の3日間の死闘の、ほんの僅かな部分を垣間見た気分になったのだ。 私は、今年で70歳になる。私の長い釣り人生を振り返えると、本当に多くの種類の釣りをしてきた。今も、八丈島でのガイド業であるから、ルアーフィッシングの他にも、磯釣りに、船の餌釣りに、多くの釣りをする。 それは、それぞれの釣りに趣きがあり、魚のサイズに関係なく感動があり、多くのお客様が、その感動を笑顔で表してくれる。 ただ、仕事としてではなく、本心から心を入れた釣りをするのは、やはりジギングだろうか。そしてそのジギングも、今は自分のステータスである100キロオーバーの魚を目指した、其れに絞り込んだ釣りだろうか。 多分相当に難しいし、2度と出来ないのかも知れないが、それでも。それでも。残り少ない生涯を、そんな釣りに賭け、その可能性を目指したい。 取材などもある。それは、それぞれのフィールドがある中で、毎回毎回、そんな釣りが出来る訳ではない。 しかし、心の中に、常にそんな気持ちを持ち続け、自分の年齢などは考えず、フィールドの最大魚を目指す考えだ。 「釣れなくても良い。小細工などせずに、自分が求める釣りだけすれば良い」 こんな考えを持つようになったのは、子供の頃から抱いたヘミングウェイの「老人と海」に描いた夢であり、それがヘミングウェイからの贈り物だったかも知れない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.05.20 16:16:18
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