フルコースで届いていますクリスマスプレゼント
《 礼拝説教 》 「フルコースで届いています、クリスマスプレゼント」 2008,12,21ルカ2:8-12 【 フルコースで・・・ 】 一ヶ月ぐらい前に、「今年の説教の題何にしますか?」とチラシを作っていた子供に聞かれました。「去年なんだっけ?」「『届いていますよ、クリスマスプレゼント』だった。」「そう、じゃあ、今年は『フルコースで届いていますよ、クリスマスプレゼント』だね。」 と言うことで、今日の説教は、最初は「フルコースで届いています。クリスマスプレゼント」としたいと考えていたのです。それはこういうことです。まさに、主イエスの到来によって、永遠が歴史の中に突入したのです。特のその主イエスの十字架と復活によって、わたしどもの罪と死が買い取られ、聖霊の満たしによって呪いと悲しみの世界が買い取られ、再臨と永遠の命の到来と言うメッセージによって人生の究極的な空虚さや死に対する恐怖が贖い取られたのです。そして、今やわたしどもも、神の子とされ、神との和解と命、神と共に生きる者の平安と喜びにわたしどもを満たしてくださるのです。そのような意味で、クリスマスは「フルコースのプレゼントなのです」。【メッセージのポイント】1)その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。(8節) ⇒ 羊飼いたちへ ー 悲しみと失意のわたしたちへー の告知 ルカ福音書を描いたルカは、いつでも小さい者、虐げられている者、貧しい者の味方であるように見うけられます。この8節から21節の箇所でも、新共同訳の小見出しは「羊飼いと天使」となっています。改めてこの箇所を読むと、これは羊飼いと天使の物語なのです。羊飼いは当時、社会的には身分の低い存在として扱われていました。特に彼らは祭儀律法を一点一角までは守る事ができませんでした。彼らは手を洗う事やその他のこまごまとした規則を順守する事ができなかったのです。時にはお風呂にはいることもできませんでしたので、臭いがしたりしたのです。彼らは裁判の証言も許されませんでした。ですから、当時の正統的ユダヤ人からはくだらない人間と見られ、破門されていたようです。時はちょうど、ローマの強大な世界制覇のための徴兵徴税のための人口調査の時に、人口調査の対象にもならず、羊と共に野原に捨て置かれた疎外者だったのです。 でも、主の誕生の時にまず、第1に天使から、そのお告げを受けて、礼拝に駆けつけたのは羊飼いでした。王の王、主の主なる方のお生まれが、馬小屋であり、飼い葉おけであり、最初に御子の誕生を示されたのが、当時、最も貧しいとされた羊飼いたちであったことは大変、重要なメッセージを込められています。以前に「マリヤの賛歌」について学びましたが、それは「革命の歌」であるということでした。ルカはいつでも、小さいもの、虐げられている者、貧しいものの味方です。クリスマスは天からの逆転劇です。「貧しいものは幸いである!悲しんでいる人は幸いである」と語られる主イエスの山上の説教は、クリスマスのメッセージでもあります。自分の罪と死の現実に、泣き悲しむことのない者にはクリスマスメッセージは届かないのかもしれません。 今日は、3人の兄弟姉妹が洗礼を受けられ、5人の兄弟姉妹が転入会を致します。彼らは今日から、新しい生涯に入ります。ここまで来るにはそれぞれのいろんな体験があったことでしょう。 皆さんが、主イエスの十字架と復活によって、わたしどもの罪と死が買い取られ、聖霊の満たしによって呪いと悲しみの世界が買い取られ、再臨と永遠の命の到来と言うメッセージによって人生の究極的な空虚さや死に対する恐怖が贖い取られた恵みに生きることができますように。「フルコースのクリスマスプレゼント」を受け取ることができますように。2)天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。(10節)。 ⇒ 天使のメッセージ 「大きな喜び」の告知 第2番目に、ここで出てくるもう1種類の存在、「天使」について考えてみたいと思います。じつはここには「天使」という言葉が、ここに7回も繰り返されています(9、10、13、15、17、20、21節)。天使がキリストの誕生を告げ知らせ、さらに天使に天の大群が加わり、神を賛美したというのです。7は聖書では完全数と言われます。天からの告知と天での賛美の完全な輝きがここにあるように思います。ここはまさに、人間世界の最も貧しい所にいた救いを必要とする羊飼いと、天的な世界の使者である輝く天使が、被造物の代表として現われます。輝きの満ちたもう天の世界と、悲惨と問題に満ちた人間の世界。罪と死の暗黒の覆った人間の世界に、神は高き所から、今、降りたもう。しかも、その独り子が、わたしどもの罪と死の呪いを一身に受けて贖いとなりたもうのであります。天使のメッセージはこれです。10「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、 あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたが たは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた がたへのしるしである。」 長い間待ち望まれたメシヤがついにやってきた。彼は布にくるまって飼い葉おけに寝かされています。それがしるしなのですと。救い主は今、いぶせき厩の飼い葉おけに安らかに身を横たえて眠りたもうのです。 10節に「大きな喜びとあります」。「大きな」という言葉は「メガレー」というギリシャ語で「メガトン」とか「メガフォン」という時の「メガ」です。メガトン級の喜びの爆弾が彼らの心で爆発したのです。クリスマスとは喜びの日です。幼子イエスにおいて神の絶対的愛と0絶対的勝利を知る喜びの日なのです。どんな大水も消すことのできない「喜び」の日です。マタイ2章10節にも東の国の博士達が、星に導かれて、幼子のいる場所まできたときに、「大きな喜び」が沸き上がるのを体験したと書いてあります。マタイもルカも2章10節で大きな喜びと書いてあるのはとても不思議な感じが致します。心に天使のメッセージを受けましょう。20節の「神をあがめ、賛美しながら」と言うのは「神の栄光を帰す」という事。「賛美しながら」とは「神をほめたたえる」事を意味します。救い主の赤ちゃんを発見した羊飼いは、救い主の恵みの豊かさに感激して、礼拝し、神に栄光を帰し、賛美しながら帰ったのでした。見聞きしたことが、すべて天使の話した通りだったからです。「神をあがめ、賛美しながら」という言葉は、喜びの響きそのものです。神の恵みで満たされた心から賛美が涌いてくるのでしょう。また、自分自身の生きている現実を、喜び、感謝して生きているので、人生そのものを肯定することができ、神をあがめるということができるのでしょう。どのような境遇にあっても、神の愛が、主の福音が人を生かすのです。 実は今日、12月21日はわたしにとっては忘れることのできない日なのです。1969年のこの日、わたしは日本基督教団練馬○○教会という教会で洗礼を受けました。当時、19才の青年でした。わたしはそのころは絵描きになろうと思って、東京芸術大学を目指して、美術の予備校、目白のすいどーばた美術学園に通っていました。当時は1970年直前で、日本でもベトナム戦争反対、安保反対の大嵐が吹いていた時です。19才のわたしは自分の生きる道を真剣に求めていたのでした。一時はヘルメットをかぶって、新左翼運動に加わったこともあります。山谷の中に入って行って、労働をしたこともありました。けれども、何をしても心の平安が得られませんでした。わたしのうちには深い罪意識があり、こころの最も深いところでは、罪の許しを求めていたのだと思います。 洗礼を受ける日の朝、わたしは自分の魂に語りかけていました。「オレは今日死ぬんだ、今日から新しい自分が生まれるんだ!覚悟はできているか?」と。クリスマス礼拝が始まった。牧師の説教が終わって、いよいよ、洗礼の時である。胸がどきどきしました。牧師に導かれるまま信仰の告白をし、その後洗礼を受けました。市川牧師が「○○、われ汝に父と、子と、聖霊の名によってバプテスマを授ずく!」と宣言して、わたしの頭に水をかけられた。その水が襟首から背中に流れ、冷やりと感じた時に、「救いが来た!」と感じました。わたしはその時、感動を押さえることができずに、男泣きに泣きました。市川牧師が、「深谷くんは今、感動で泣いておりますが、主よ、この青年を祝し…」と祈ってくださいました。 この日、わたしは夕方から行われるクリスマス祝会に出席するために残っていました。夕方のクリスマス祝会も大変喜びに満ちたものでした。キャンドルサービスがあって、出席した一同が、ある者は大きな声で賛美をし、ある者は一年の感謝をしました。その中で最年長の白石万亀子姉が「今日新しく生まれた○○さんにみ言葉をプレゼントします。『たといわれ、死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れじ、汝、われとともにいませばなり』…」と暗唱してくださいました。わたしはそれを聞いて、この聖句を一生の聖句としようと思いました。市川先生が「○○くんも証しをしな」とおっしゃるので、自分が主イエス様を知るようになった中学生の頃から現在にいたるまで、かなり長いお証しをしました。最後に「昨日、月を見ていたら、イエス様がわたしを愛しているよ!って言ってくださってるようで、涙が止まりませんでした…」と言った時に、涙で声が詰まってしまいました。市川師が「そこまででいいでしょう…・」と言われたが、先生の目にも涙が光っているように見えました。クリスマス祝会を終えて、桜台駅から自分のアパートに帰るまで、わたしは、うれしくてうれしくて、心の喜びを押さえ切れませんでした。町を歩きながら、賛美したり、横に歩いたり、後ろ向きになったり、飛び跳ねたりして帰って行ったのです。夜風がわたしの首に巻き付いて来るような解放の喜びでした。自分の部屋に入って、油絵の具を紐で縛って押し入れに投げやり、「主よ、わたしは、あなたに献身し、牧師になります!」と祈りました。「大きな、おおきな喜び」。クリスマスは主イエスをお迎えする礼拝の日、喜びの日、賛美の日です!全ての悲しみ、全ての苦しみを飲み込んでしまう、メガトン級の喜びがベツレヘムにドカン!と落ちたのです。わたしどもの心に落ちたのです。 良きかな、神をよろこぶクリスマス。 楽しきかな、主にある人生を喜ぶクリスマス! ハレルヤ【祈り】 全能の父なる御神よ。今日はクリスマスの聖日です。どうぞ、わたしどもの霊の目を開いてください。「フルコースで届いています。クリスマスプレゼント」。まさに、主イエスの十字架と復活によって、わたしどもの罪と死が買い取られ、聖霊の満たしによって呪いと悲しみに世界が買い取られ、再臨と永遠の命の到来と言うメッセージによって人生の究極的な空虚さや死に対する恐怖が贖い取られました。そして、今や神の子として、神との和解と命、神と共に生きる者の平安と喜びにわたしどもを満たしてください。われらの救い主にして、クリスマスの主、わたしどもの罪を贖うために、ベツレヘムの馬小屋にまで降られた、神のみどり子、我らの救い主、主イエスの聖名によって祈ります。アーメン