カテゴリ:信仰
「五島へ五島へと皆行きたがる。五島はやさしや土地までも。」
「五島へ五島へと皆行きたがる。五島は極楽来てみて地獄。五島は極楽行てみりゃ地獄。二度と行くまい五島のしま。」(五島キリシタン唄) 江戸幕府と同様、キリスト教を禁止した明治政府が、五榜の掲示により切支丹宗門禁制を布告。浦上のキリシタンへの弾圧(浦上四番崩れ)が始まった。五島列島でも明治元年(1867年)から、各地で迫害が行なわれた。 明治元年9月29日(1868年11月12日)に久賀島ではキリシタン約200人が松ヶ浦の大開の牢屋に入れられ、石抱や水責めなどの拷問を受けた。 キリシタンたちが収監されたのは、わずか6坪ほどの狭い牢で、死亡者42名(うち、出牢後の死亡者は3名)を出した。 窮屈な牢屋の中は、土間のままで厚い板で中央を区切り男牢と女牢とに区分けされた。押し込められた200人は立錐の余地もなく、せり上がって足が床に着かず、身動きできないまま死んでいき、放置された死体は腐乱してウジが湧いた。 与えられた食べ物は朝夕にサツマイモを一切れずつで、ひもじさに泣き狂う子供に顔をかきむしられて血まみれになった母親もいた。体力の無い老人や子供から死んでいき、最初に死んだのは79歳の助市だった。5歳の政五郎は水を求めて「アップ(水)、アップ」と言いながら渇き死にした。 「十歳のマリアたきは熱病に冒されて髪の毛は落ち、それでも『パライゾ、パライゾ、わたしはパライゾ(天国)に行きます』といって息を引き取った」 「その妹マリアさもは七歳の幼女であったが、『イエズス様の五つのおん傷に祈ります』と言い残して亡くなった」 弾圧の後 明治政府のキリシタンへの弾圧を知った長崎の外国領事たちから、当時の長崎府知事澤宣嘉への問い合わせに始まり、各国公使から政府当局宛のキリシタンたちに寛大な処置をするよう要望書が提出された。度重なる外国公使団からの抗議と、明治2年11月のイギリス公使ハリー・パークスの久賀島実情調査が行なわれたことで、拷問は中止。 明治6年(1873年)にキリスト教禁教を定めた五榜の掲示の高札が撤去され、キリシタンへの弾圧は終わった。 (ウイキペディアより抜粋) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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