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テーマ:海外生活(7774)
カテゴリ:海外雑感
最近、自分の年齢のこととか、カナダと日本のこととか、とりとめのないことを考えることが増えています。
一番大きな理由は、今年がカナダに来て20年目だということがあります。 私には何人かの甥姪がいますが、一番年上の子が18歳。私がカナダに来た翌年に生まれて、今年大学生になりました。 私は私なりに実りある20年を過ごしてきたと自負していますが、私がカナダに来た時にまだ胎児にさえなっていなかった子どもが、今年国立大の医学部に入学しました。20年という時間の長さ、すごさを感じるのにじゅうぶんな出来事で、凡人の一生懸命などというものはなんでもないのだということを身内のまだまだ幼いと思っていた子どもから突きつけられたような形です。 また、年齢的にも難しい時期になっているということもあります。20代後半のまだまだ娘気分が残る年頃から、中年あるいは初老という年頃にさしかかっているのですが、夢中で過ごしてふと気づいたらオバサンになっていたということをまざまざと感じるようなことが立て続けに起こります。 それが娘の初潮だったり、私自身の更年期のサインだったりするのですが。 過ぎ去った時を惜しんで感傷に浸っているわけではありません。私は若いときはその年頃ならではで味わうことのできるおいしいところをじゅうぶんに味わい、楽しむだけ楽しんで、現在も実り多く忙しい恵まれた社会人生活を送っています。 もし20年前にカナダに来ていなかったら、こういう恵まれた生活はなかったとは思いますが、ただただ忙しく、前へ前へと進んできたこの20年間があまりにもあっけなく過ぎ去ってしまったということに呆然とします。 20年が経ってしまったと思うと、イヤでも年をとってしまったことを意識しなくてはなりません。 実りが多くても少なくてもいっそ関係ないかもしれません。 いくら今でも輝いていると言ったところで、それはまったく違う種類のものです。20年分年をとって、あの輝いていた日々は過ぎ去ってしまったのだと認めざるを得ないです。 その20年に思いを巡らす時も後悔や焦燥はなく、ただ温かい懐かしい、いとおしい思いが沸きあがってくるのは幸せなことだと思います。 でも、ねぇ。 いくら満足していても「だから何なの?」という思いも確かにあります。本当に、1人の人間にできることなんて限られています。理想の自分や、理想の生活に近づいたところで「だからどうなの?」と皮肉な自問をしています。 20年無駄に生きてきたつもりはないのにこうだと、グズグズだらだらと過ごしていたらどうだったのだろうと思ってみたり、どんな過ごし方をしてもきっと同じだったかもと思ってみたり。 こういうことをいつまでも考えてしまうのは、自分は恵まれているとか満足しているとか言いながら、本当はどこかに不満があるからなのでしょうか。とにかく、節目の年に嫌というほど自分の歳のことを意識しています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.05.21 06:40:03
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